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13話 幼馴染 中編

 兄さんがミィナを助けたとき、なにも思わなかったといえば嘘になる。ちょっぴり胸がチリチリして、だからこそ尚更、笑って誤魔化したくなったんだ。  僕はずっと、心のどこかで、ミィナは兄さんが好きなんじゃないかと思っていた。  だって兄さんは完璧だもの。綺麗で、優しくて、紳士で、頭もいい。それに、ミィナは僕のことは呼び捨てなのに、兄さんのことはエミリアさまって呼ぶんだ。なにか意味があるのかなって、思っちゃうよ。  でも、相手が兄さんなら仕方がないかなって思うよね。僕が女の子だったら、やっぱり兄さんを好きになったと思うから。  兄さんの腕のなかで頬を染めた彼女を見て、僕は失恋を悟ったんだ。  それなのに、恋心というのはなかなかにしぶとくて。いつまでも、僕の心でキャンドルの火を灯し続けて。結局、兄さんに見透かされて応援されて、ついには告白しちゃうまでに、大きくなっていったんだ。  (ども)りに吃った僕の告白を受けてくれたときの彼女の笑顔は、きっと死ぬまで忘れない。  『私も、ずっと好きだったの。ずっと、小さいときから、リタのことが好きだったのよ』  花びら色の頬をした彼女の言葉を、一生忘れられないよ  それなのに。ああ、それなのに……。 「ミィナ……」  僕の呟いた名前は、地下室の冷えた空気に溶けていく。  初デート、行けなかった。行けないと伝えることも、行けなくてごめんと謝ることもできていない。そればかりか、彼女ともしたことのない性的な行為を、兄さんとしてしまって。 「うん? ミィナ?」  びくっとした。  僕の後ろで眠っていたはずの兄が、目を開けている。 「会いたいのかい?」  僕を抱き寄せて、髪を梳いてくる。 「君が望むなら、会わせてあげよう」  思いもしなかった兄の言葉に、僕はこれ以上ないくらいの機敏さで振り返っていた。 「ほ、本当に!? い、いいの!?」 「いいよ。愛するリタの為ならば」  僕の額にキスをして、ベッドを降りる兄。乱れた衣服をあっという間に整えると、気品ある貴公子、エミリア・マディールの一丁あがりだ。その姿には淫らさも恐ろしさも一切ない。どこまでも高潔で、どこまでも綺麗な、僕の兄さん。  僕は泣きそうになった。  兄以外の人に会うのが、ものすごく久しぶりに感じられる。ミィナは僕の希望の光だ。  気がつけば、神さまに祈るように指を組んで、震える息を長く吐いていた。 「待っていてね」  ああ、兄さん。すごい。兄さんが本物の天使に見える。  僕の頭を柔らかく撫でて、薄青の瞳を細めて微笑んで。首のあたりでさらりと揺れる髪は、艶やかに輝いて光の輪をつくっている。  重い音を立てて閉まる扉をこんなにも心躍る気持ちで見ているのは初めてだった。大きな輪のかたちをしている奇妙なドアノブも、今は花型にすら思えてくる。  ミィナ。ミィナ。ああ、ミィナに、会える……!  なにを言おう。なにを話そう。  ああ、そうだ。まずは、謝らないと。  謝って、わけを話して──。  そこまでを考えて、舞い上がっていた僕の気持ちは一瞬で地に落ちた。  眼前に翳した両手のひらを見つめ、視線を下げていく。サイズの合っていない、すこしばかりぶかぶかした服。これの下は素裸だ。何日もシャワーを浴びていない肌は、垢っぽい。足の裏なんて真っ黒だった。  足枷まで嵌められたみすぼらしい姿で彼女に会うのかと思うと、激しい羞恥に見舞われた。きっと、僕はひどい匂いがすることだろう。  ああ、でも、ミィナに助けを呼んでもらえる。そうすれば、みんなに兄さんがおかしくなったことを証明できる。  そのあとはきっと父さんがなんとかしてくれる。兄さんも元の優しい兄さんに戻ってくれるはずだ。全てが、全てが良くなる。なにもかも元通りになる。  きっと。きっと。  ミィナが、僕たち兄弟を救う鍵になってくれる。  そう思うと、心に安らぎが帰ってきてくれた。  すこしでも身嗜みを整えようと、髪に手ぐしを入れる。兄に借りている服の前立てをしっかりとあわせ、シワをのばした。下着がないのはとても嫌だったけれど、それはこの際仕方ない。  トイレ代わりの木桶をそのまま置いておくのは恥ずかしかったので、ベッドの後ろに置いて隠す。ぐちゃぐちゃになったシーツを整えて、不埒な痕跡は布団で覆う。後ろめたい気持ちが胸の奥を針でつつくのは、見て見ぬふりをした。  ベッドに腰かけて、そわそわした気分で彼女を待つ僕。  色々な想いがお腹のあたりでぐるぐるしたけれど、最終的に一番大きく膨れ上がったのは、なんだかんだいってミィナに会えることへの喜びだった。  どれくらい、待ったのだろう。  体感としてはものすごく長い時間だった。僕の体内時計はすっかりおかしくなってしまっている上に、時間を知る術もない。だから、実際は何時間だったのか──あるいは、一時間も経っていなかったのか、僕にはわからなかった。  ひとつ確かなのは、とてもお腹が空いてきたということだけ。  静寂のなかで待ち続けた僕は、扉が立てた微かな音を聞き逃さなかった。弾かれたように顔を上げ、お尻が勝手にベッドから浮き上がる。 「遅く、なってしまったね」  扉を身体で押して、身をすべり込ませながら、兄は優しく目元を緩めていた。  あれ、なんだろう。今、一瞬変な匂いがしたような──。僕の身体だろうか。今まさにミィナと会うのに、嫌な気持ちになった。 「ミィナを連れてくるのは、結構大変だったよ。ほら、僕は力があまりないものだから」  もうすこし筋力をつけないといけないね、と頬を掻いた兄さん。その拍子に、袖のあたりからなにかが飛んだ。無意識にそれを追い、視線を下げた僕の目が、釘付けになる。  左手……。そう、左手だ。兄さんの、左手。  握ってる。それ。すごく、すごく、見覚えがある。  その、赤い三つ編み──。  僕は、言葉にならない叫び声をあげた。  兄の手に、あのお下げ髪が……。いや、兄が持っている三つ編みから、()()()()()()。 「っと。急に大声を出さないでおくれ。びっくりしたよ。そんなに、会いたかったんだね……。……妬けて、しまうなぁ」  兄の左手が持ち上がり、それは揺れる。高々と腕を上げて目線をあわせ、兄は、掠れた声を紡ぎ出したのだ。 「ねぇ……。ミィナ……?」  不安定に揺れて傾く、ミィナの生首に向かって。 「うっ……! ゔ、え……っ!」  喉の奥から苦酸っぱいものがせり上がってきて、僕は堪えきれずに、ベッドの陰に走った。 「おえっ……! げぼっ、おえ゙ぇっ!」  木桶の底で跳ねる吐瀉物。生理的な涙で視界がぼやけ、荒い息を吐き、僕はまたしても胃液を吐き出した。  ぱっと見ただけなのに、衝撃的な彼女の姿が脳裏に記憶されて離れない。ぐちゃぐちゃな、首の断面が。頭にこびりついて。 「大丈夫かい?」  肩に手を置かれる感触に驚いて、反射的に振り払ってしまった。即座に謝ろうとして後ろを向くと、目の前には。 「あっ……、ひ、……」  彼女がいた。  ぶらぶらと、微かに揺れて。ばさばさの唇を半開きにして。  ああ、こうしてみると、本当にミィナだ。  顔立ちも、伏せられた目も。そっくりそのまま。  肌の色だけが、異様で……。 「だめだよ。キスなんてしては。リタは、僕のものになったのだからね」  めっ。と冗談めいた声をあげる兄の神経が、信じられなかった。  兄は椅子にミィナを降ろそうとして、『ここでは低いかい?』と普段通りの喋り方で言葉をかけ、離れた場所にあるテーブルに彼女を置いた。ご丁寧に、わざわざ顔をこちらに向けて。 「ああ、よかった。ちゃんと立った。転がすのは流石に可哀想だと思っていたから……」  いい子いい子をするようにミィナの頭を撫でて、兄さんが近づいてくる。動けないでいる僕の腰に腕がまわり、立たされた。  兄さんはひどく情熱的な眼差しで僕の顔を覗き込んでいて。頬に、手を添えてきたんだ。  ぬるんとした感触が、する。 「僕とリタが愛し合っていることを、ミィナに証明してあげようね」  兄の言葉は、僕の頭に入らなかった。  左頬を覆っている手の色が、赤い。綺麗すぎる顔が近付いてきて唇同士があわせられても、僕は兄の手から目が離せなかった。  兄の唇が、顔が、身体が離れていって、全貌が明らかになる。ジャケットが濃い色だったから、わからなかったんだ。  ぐっしょりと右袖を濡らし、たつ、たつ、と雫をおとす、血液に。  自分の頬に触れて、手のひらを見てみる。赤色が、ついた。  ねえ、ねえ、兄さん。  これは、誰の血──? 「あ、ああ……、うぁ、あぁ……」  身体が震える。力の入れ方がわからなくなって、立っていられなくなる。 「おや……? いやだな、リタったら。腰を抜かすような激しいキスをしたつもりはないのに……。ふふ。もう……」  即座に支えてくれた兄は、照れた顔をして、紳士的な所作で僕をベッドに導いた。そうして、血だらけの手で口元を隠しながら、僕の耳に口を寄せたのだ。 「ミィナといえども、この先は見せたくないかな。君の艶姿は、僕だけのものだから……」  そう囁き、兄は笑う。嬉しそうに、恥ずかしそうに、艶やかに。  僕は、言葉の一切を失ってしまったみたいだった。頭が思考を放棄して、ミィナの方へ歩いていく兄の後ろ姿を見ているので、いっぱいいっぱいで。 「可愛いだろう? ちゃんと、リタは僕が護っていくからね。だから、安心してお眠り……。ミィナ」  血がついていない手が、ミィナの頭をもう一度撫でた。垂れ下がる二本の三つ編みが恭しく絡め取られて、彼女の頭がお辞儀をする。  無意識のうちに伸ばした手で、僕はなにをするつもりだったのだろう。  彼女が、揺れる。  揺れながら、兄とともに地下室を出て行こうとしている。 「リタ」  真っ赤な手で扉に触れて、兄は振り返った。 「次は、誰に会いたい?」  感情の読めない薄青の瞳を、僕に向けて。 「だ、誰にも……! 誰にも、会いたくありません……!」  考える前に、口が勝手に悲鳴じみた声を放っていた。  兄さんは、狂っている。  わかっていたのに。わかっていた、ことだったのに。  僕は、甘かったんだ。兄さんの危険性を、見誤っていた。ミィナが死んだのは、殺されたのは、僕のせいだ。  馬鹿な、僕の。

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