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第7話
翌日、神崎はモヤモヤとした気持ちが全く晴れないまま、いつものように科学準備室にいた。
生徒は夏休みだが、教師には関係ない。
むしろ、生徒がいない分、普段出来ないことをサクサクと進められる貴重な時間だ。
これまでの神崎であれば、夏休み中の学校は楽園だった。
誰にも邪魔をされず、好きなことに没頭できる。そんなユートピアを今年も満喫する予定だったのだが…すっかり事情が変わってしまった。
昨日、別れ際の悠が忘れられない。
あの傷ついた瞳が離れない。
神崎は、これまでの人生、数多くの人間を振って来た。男女問わず、言い寄られたことは数知れず。気まぐれに付き合ったこともあったが、ごく短い期間に過ぎない。
元々、人間にはそれほど興味がなかったし、自分の好きなことに時間を捧げたいタイプだ。
今回のことだって、いつもと同じく大したことではない、と思っていた。
なのに…。
罪悪感・後悔・自分への怒り・喪失感…色々な感情が次々と神崎を襲う。
ストレートに好意を口にする悠、子供の戯言だと始めは気にしていなかった。
しかし、決して悠を嫌いじゃない自分がいる。
相手は17歳の高校生。しかも自分は教師だ。
教師として、この感情を口に出して良い訳がない。
2人の間の壁は、エベレストより高い…
大丈夫。。時間が経てば、この感情も薄れていく。この想いは断ち切るほかに選択肢はない。
まだ子供である悠のため…。
自分へ念じるように。。言い聞かせていると、突然科学準備室のドアがノックされた。
・・・・・・・・・・・・・・。
珍しく心臓がドキっとした。ここに来る人間は限られている。いま、咄嗟に思い浮かぶのは1人・悠しかいない。
鼓動がますます速くなる…。
いま、悠と顔を合わせて、何を言ったら良いのか…これまた珍しく動揺してしまった。
どうするか、考えている間にガチャッと扉が開き、見慣れた顔が現れる。
『はあ~』と安堵のため息が漏れた。安心しすぎて、体の力が抜けてしまう。
「なんだなんだ、俺が来てそんなに嬉しい顔したことないじゃん」
そう言って笑った阿部 透は、ツカツカと神崎の元まで歩み寄る。
「正直、お前で良かった」
「?」
旧知の友の理解不能な言葉に、首を傾げつつも、次の瞬間には表情を一変させる。
「穂高」
「…どうした?」
悠ではなかったことで、動悸も治まった神崎が、資料に目を通しながら耳を傾ける。
心なしか、透がいつもと少し様子が違うような気がした。
「…里中 悠にご執心みたいだな」
「!」
いきなりまさかの名前が飛び出して、神崎の動きが止まる。
「趣向を変えたのか?」
なおも続く透の発言に、再び動悸が始まった。
「何の話しだ」
神崎は、視線は向けず素っ気ない態度をとる。
すると、さらに近づいて来た透が、乱暴に机を叩いた。
これにはさすがに神崎も視線を向けた。
「透?」
「…知っているぞ。この科学室で密会していることを」
「密会?人聞きの悪いことを言うな」
「違うのか?」
「あいつが勝手にやって来るだけだ」
「本当か?」
「お前に嘘をついてどうする」
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
問答のあと、お互い無言になる。
透の表情が先ほどよりもどんどん険しいものになって行った。
「なぜ悠は足しげくここに来るんだ?」
「知らん」
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
二度目の沈黙が続く。余りにも急な展開で、なにが起きているのか神崎には分からなかった。
ただ、透が悠を呼び捨てにしているところに違和感を感じる。
透が悠の担任であることぐらいは知っているが、この2人がそれ以上の接点があるというのだろうか。
「悪いが…悠は俺のものだ」
「え…」
透が何を訴えているのか、理解するまもなくさらに続く。
2人の間の距離も縮まり、透は間近まで迫って来た。
「俺はずっと前から悠だけを見て来た…手を引いてくれ」
「は…?だからおれ…」
「悠に興味がないなんて言うなよ。本当にそうならば、毎回この部屋への立ち入りを許すお前じゃないだろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
抗いようもない事実を突き付けられ、何も言えなくなる。
透の言う通りなのだ。自分は、興味のない人間と幾度も同じ時間を過ごしたりはしない。
初対面からきっぱりと言っているはずだ。それをしないのは何故なのか…いまは、神崎本人よりも、透のほうがよく分かっている。
「穂高とは長い付き合いだが、悠だけは譲れない」
・・・・・・・・・・・・・・・。
またしても2人の間に沈黙が流れる。
見たこともない透の真剣な眼差し。
悠のことは何とも思っていない、ただの生徒の1人に過ぎない。
これまでの自分なら、すぐにそう言っていた。
しかし、透の言葉を聞き、心がざわつく。この真剣な瞳が、昨日の悠の瞳と被る。本当なら、
『お前の恋路を邪魔なんてしない』
と言うはずが…なぜか、そのセリフは選択肢にはない。
「…里中の気持ちはどうなんだ?お前と同じなのか?」
神崎の口から出た言葉は、最大限理性を抑制したものだった。
心の中では全く違うことを考えている。
だが、さすがに友である透には言えない。一方、透のほうも、神崎から痛いところを突かれ言葉に詰まった。
「…悠の気持ちは、、、はっきりと聞いてはいない」
「最終的には里中が決めることだ。俺たちじゃない」
「穂高…お前は…」
神崎の瞳も、もはや迷いはない。自分へ向けられた2つの瞳に応えるように・・・。
「里中の気持ちに、俺も従うまでだ」
悠が聞いたら大喜びをしそうな言葉を神崎は無意識に発していた。
自分でも不思議なことに、これが嘘偽りのない正直な気持ちだった。
すると、透はそれまでの険しい表情を変え、神崎に向き直る。
「穂高の気持ちは分かった。俺は決して諦めないから、穂高も遠慮はするな」
返事の代わりにゆっくりと頷く。旧知の仲の2人が、まさか恋敵になるとは。
当の本人たちが一番驚いているだろう。悠の知らないところで、バトルの幕は切って降ろされたのであった。
科学準備室を出た透は、いつになく、強い気持ちを表した神崎に、焦りに焦っていた。
何故なら…。
10年を超える付き合いの中で、神崎があれほど真剣に話したことなんて記憶にない。
ましてや、恋愛絡みで言い合うことなど皆無だった。
悠が、科学準備室に通っていることを知って焦った透だが、てっきり神崎は興味なしと思い込んでいた。神崎までもが真剣だとなると、形勢はかなり不利だ。
高校3年である悠との接点も、この夏を逃すと失ってしまう。その事実を突き付けられ、透の焦りは頂点に達しようとしている。
だが…運はまだまだ透を見放してはいなかった。
夏休み中で、誰もいないはずの教室へ行くと、そこには悠が1人席に座っていた。
ウソではないかと、目をこすって見ても、間違いなく悠である。
「悠!」
周りに誰もいないのを良いことに、透は大声で叫ぶように名を呼ぶ。
「先生、どうしたんですか。そんな大きな声を出して…」
きょとんとしている悠に近付き、華奢な腕をつかむ。
「先生…ちょっ…」
腕をつかむ手の力がさらに増して、反射的に悠が逃げようと体を引いた。
透はそれを許さず、両肩をつかんで引き寄せると、真正面から悠を見つめる。
「どこに行くんだ?今日は登校日じゃないだろ」
「…科学準備室へ…」
『科学準備室』と聞いて、透の表情に殺気が混じり出す。
「穂高に会いに行くのか?」
「え…あの…そうですけど…」
突然、バンッと音がして、悠が飛び上がる。その音は、透が机を叩いたものだと気付く前に、悠は体を机に押し付けられた。
「穂高を好きなのか?」
「せんっせい…痛い」
「いつから?」
「せ、ん…せい!」
「俺の気持ちを知っているよな?」
「先生!!」
人が変わったように叫ぶ透に、今度は悠が声を上げた。
その声で、一瞬我に返った透が、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「…先生。。僕は…神崎先生が‥」
「言わなくて良い!」
せっかく取り戻した落ち着きが、悠の言葉であっという間に消え去った。強い声で悠の言葉を遮ると、もう一度両肩を掴む。
しかし先ほどまでのキツイ眼差しは、どんどん失われ、見たこともないような表情になる。
両肩を掴んだまま俯いた透は、いっそう腕の力を強めた。
「…なぜ…穂高なんだ…俺は、ずっと前から…」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
いつもおチャラけた印象しかないためか、ギャップが激しくて悠はどうしたら良いのか分からない。
「ごめんなさい…」
ただ素直に謝ることが、悠の精いっぱいだった。
しかし…その言葉に透が反応し、顔を上げた瞬間、悠の身体を抱きしめる。
「せんせっ…」
「俺じゃダメか?穂高なんかより俺の方が絶対に悠を大切にできる」
「やめッ…」
いきなり抱き締められ、驚きよりも怖いと言う感情のほうが勝った。
顔を合わせれば、告白をしてきた透をどこか冗談だと思い込んでいた悠だが、いま初めてその本気度を実感したのだ。
しかし、皮肉なことに、それは神崎への想いを悠が再確認する機会にもなる。
悠の頭の中には、神崎の顔だけしか浮かばなかった。透の腕の中に抑え込まれながら、いますぐにでも神崎に会いたい。
「やめてください!」
渾身の力で、透の身体を突き飛ばす。すぐに透が手を伸ばして来たが、それを振り払い教室から飛び出した。
「悠!」
透の声が聞こえたが、後ろは振り返らず科学準備室へ走り続けた。
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