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第8話

 目的地の科学準備室へ着くと、ノックもせずに勢いよくドアを開けた。 驚いた神崎が顔を上げる。神崎にとっては、透に続き今度は悠まで突然やって来て、驚きは2倍だ。 しかも悠の様子から、いつもの科学準備室訪問とは思えない。 「先生!」 問いかける前に悠が神崎の胸へ飛び込んでくる。 「どうした?」 「先生…」 自分にしがみつく小さな身体が小刻みに震えている。 ただ事でない、ことは神崎にも分かる。 どうしたら良いのか…どうするべきなのか。 いつもなら、無理やり押し剥がすところだが、今日は両腕でその身体を包み込んだ。 その行動に驚いたのか、一瞬ピクリと身動ぎをしたが、すぐにもう一度抱き着いて来た。 今度は、先ほどよりも力を入れてしっかりと・・・。 「先生…今日は怒らないんですね」 言ってポロポロと涙が頬を伝う。 「泣いている人間を突き放すほど鬼じゃない」 腕の中でプッと吹き出したのが分かる。 「…泣くか笑うかどちらかにしろ」 「じゃあ泣きます」 「まだ泣くのか…」 未だ抱き着く悠の両肩をそっと押し、顔を見合わせた。 「泣くな。俺が苛めているみたいだ」 悠の瞳から今にも零れ落ちそうな涙を指で掬う。 その行動が、悠の涙をいっそう誘うことになるのも知らずに…。 「苛められてますよ」 「俺が?苛めてる?」 「…先生の優しさに苛められてます…」 「な・・・」 悠は再び神崎の胸に顔をうずめた。こんな機会は、もう二度とないかもしれない。 滅多にないこのチャンスを逃してはいけない、と天からの声が悠の背中を押す。 「…先生、大好きです。先生以外、誰にも触れられたくないぐらい…」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「どうしたら良いですか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 小さな胸の内を告白する悠に、抱き締めた腕を離し、もう一度視線を合わせる。 まだ涙が滲んでいる瞳がまっすぐと神崎を見上げた。 すると、神崎は悠の顔を両手で包み込み、ゆっくりと唇にキスをした。 「まったく…君には本当に参る」 「え…」 まるでスローモーションのような出来事に、悠は思考が追い付かずにいる。 何が起きたのか、理解するまで数分を要した。 「せ、先生!僕のファーストキスなんだから、予告してください!」 「は?」 「全然分からないうちに終わっちゃったじゃないですか!」 「そんな恥ずかしいことが出来るか」 ・・・・・・・・・・・・。 膨れっ面の悠と、視線をそらす神崎。 「もう一度してください!」 「ダメだ」 「先生は慣れているだろうけど、僕は初めてなんですからね!」 「誰が慣れているなんて言った」 「うそ!」 「嘘じゃない」 ・・・・・・・・・・・・・。 不満を表情でめいっぱい表す悠を宥めるように肩を叩くが、それでも一向に膨れっ面はしぼまない。 「もう一度したところで、それはファーストキスではないだろう」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 ため息交じりに言うと、悠はますます不機嫌になる。 今までとは違う意味での涙がうっすらと瞳に浮かんでいた。 「・・・よく聞け。確かに、俺にとってはファーストキスではない・・・。だが。。自分からするのはこれが初めてだ」 「え?」 「そういう意味では、俺にとってもファーストキスだ」 焦がれてやまない、整いすぎる神崎の顔が真剣になる。 「え・・・え・・・?」 目の前の神崎が格好良すぎて、言葉がよく理解できない。ポカンとしたまま動けずにいる悠に、神崎はその鼻先を指で摘まむ。 「30年近く生きてきて、初めての体験だ。君の罪は重いな・・・」 「!」 言って目を細めて笑う神崎に、悠は思わず目を丸くする。 「つ、罪って・・・どれぐらいの罪ですか?」 動揺しすぎて、何を言ったらよいのか分からない。 「心配するな。まだ執行猶予がついている」 相変わらず、神崎は笑みを浮かべている。この笑顔に慣れていない悠は固まってしまった。 そうでなくても、、、 →鼻を摘ままれ、 →理解できない言葉。 →神崎の笑み。 悠には、この三重奏を受け止めきれるはずがない。 「先生のケチ!!」 「ケ、ケチ?……あ、おい!」 悠は、神崎を突き飛ばすと、そのまま走り出し科学準備室から出て行った。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 走り去った後姿を見つめため息をつく。 咄嗟とは言え、生徒である悠に対し、自分はとうとう禁忌をおかしてしまった・・・。 悠も、あの様子から推測すると、実は嫌がっていたのかもしれない。 1人になって、我に返り・・・大きな後悔という波に飲み込まれる神崎だった。  一方、逃げるように部屋を飛び出して来た悠は、誰もいない教室へ戻って来た。 幸い、透の姿はもうない。 色々なことが一気に起こり過ぎて力が抜け、へたへたとその場にしゃがみ込む。 いま現在、後悔に襲われている神崎とは裏腹に、悠は胸の高鳴りを抑えられなかった。 「はあ…」 誰もいない教室に、神崎とは全く別物のため息が響く。 つい先ほど、自分に起きたことを思い出し恥ずかしくなる。 透の熱烈な告白を受けても何も感じなかったのに、神崎に見詰められただけで頬が熱くなった。 あんなに至近距離で視線が合ってしまったら…誰もが平静ではいられないだろう。 しかも…キスまでしてしまったのだ・・・。 思い出すだけで、今にも顔から発火しそうだ。ますます神崎を好きになって行くのが自分でも分かる。まさに現在進行形だ。 だが…浮かれてばかりもいられない。 キスをした神崎の真意が不明だし、透もこのまま何も起こらずに済むとは思えない。 考えてみたら、問題は山積みではないか。 悠は、教室の床にしゃがみ込んだまま、体勢を『体育座り』に変え、もうしばらくその場で1人考えることにした。  数日たったある日、悠は久しぶりに光哉と尊に会った。 いつものファミレスに集合し、あくまで『勉強会』と呼んではいるが、実際は夏休みの中間報告会である。 高校最後の夏休みを満喫していそうな2人とは対照的に、悠は気持ちとともに身体もテーブルに沈んでいる。 そんな可愛い友の落ち込みぶりに、2人は顔を見合わせ首を傾げた。 「悠くん。どうしたどうした。夏休みなのに、幽霊でも見たような顔してるじゃん」 ・・・・・・・・・・・・・・。 反応なし。 「おーい、おーい、悠くーん、悠ちゃーん」 ・・・・・・・・・・・・・・。 やはり反応はなし。 もう一度2人で顔を見合わせ、今度は尊がニヤリと笑う。 「デイノケイルス」 「!!」 尊の一言で、悠はガバッと勢いよく立ち上がった。 「よし起きた」 「大成功」 きょとんとする悠を尻目に、2人はハイタッチをする。 「悠くん」 「え、な、なに?」 まだ思考が覚醒していない悠は、光哉の問いかけにあたふたしていた。 「呼んでも全然反応がなかったのに、”デイノケイルス”には素早い反応をしたねえ」 「え、、、」 「もしかして・・・何か特別な意味でもあるのかな?」 「えーと…」 フフフフン。 という2人の視線に晒され、悠はゆっくりと椅子に腰かける。この友2人に隠し事は出来ない。いや、したくない。 つい数分前までは、内容が内容だけに黙っていようかと思っていたが、辛い胸の内を知ってもらいたい。 受け入れてもらえるかは分からないが… 「悩みがあるなら言えよ。水くさいじゃん」 光哉の言葉に、尊も頷いて見せた。 「…2人ともありがとう」 「なんだなんだ!やけに素直じゃん!」 悠の頭をポンポンと撫でる光哉の横で尊も頷く。 悩みの許容範囲を超えていた悠は、2人の友に目頭が熱くなった。 「おいおい、マジか!」 悠の瞳に涙が浮かび、友2人は大いに焦る。 「ハ、ハンカチなんて持ってるか??」 尊が慌ててカバンの中を探る。探し当てたハンドタオルをとりあえず悠に渡した。 「多分、きれい、だと思う。うん、大丈夫」 「ありがとう・・・」 尊から受け取った悠は、周りも気にせずわんわんと泣き出した。 タガが外れた悠の涙は止まらない。 「マジかーーーーー!」 あたふたする2人をよそに、しばしの間悠は思い切り泣いた。 「少しは落ち着いたか?」 「・・・・・・うん」 ようやく悠の涙が枯れ、少しずつ落ち着きを取り戻す。友2人は、心の底からホッとした。 こんな真昼間のファミレスで、男子高校生がマジ泣きする場面を見たことがあるだろうか・・・。 おそらく、長い人生でもそうそう遭遇するものではない。 一時はどうなることか、と本気で心配したのだ。 しかし、このご時世、他人が何をしようと、自らに被害が及ばなければ干渉しない世の中。 男子高校生が1人泣いていたからとて、みな見て見ぬふりだ。 「ごめん。。」 「いや、気にするなって。誰だって泣きたい時ぐらいあるだろ」 慰める2人に笑いかけ、完全に落ち着きを取り戻した悠は、ゆっくりと話し出した。 「神崎を好きになっただとぉー!?」 「声が大きいっ」 「これを小声でなんて言えるか!」 ゆっくりと悠が話し始めて間もなく、光哉が立ち上がって声を上げる。これにはさすがに先ほど悠が泣いていた時よりも、ファミレスの注目を浴びていた。 「か、か・・・かっ・・・」 「落ち着け光哉」 「止めるな尊!か、かっ、神崎って・・・あの神崎だろ?」 「そんなに何人も神崎なんていないだろ」 興奮する光哉の横で、尊はいたって冷静だ。 まるで、今聞いたことを前から知っているかのように・・・。 「尊、お前は驚かないのかよ!ゆ、悠があの神崎をだぞ!」 「うん、、まあ、驚かなかったとは言わないけど。何となく想定内かな」 「えーー!!」 尊の言葉にまたしても光哉の絶叫が響き渡る。 「光哉、落ち着いて(泣)」 立ったままの光哉を尊と悠の2人がかりで座らせる。これ以上ファミレス内で注目を集めるわけにはいかない。 「かっ、神崎と言えば、美咲ちゃんが惚れてるあの神崎だろ?」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 うん、と悠が小さく頷く。 「えーと・・・確か、美咲ちゃんの気持ちを悠が代わりに言いに行ったんだったよな・・・?」 うん、と再び悠が頷く。 「はあー。ついでに悠も神崎に惚れたってわけ?」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 さらに小さく頷く悠。消えてしまいたいぐらい恥ずかしい・・・。 体まで小さくなっていく悠の肩を尊が優しく掴んだ。 「・・・やっと話す気になったな」 「え?」 「悠もとうとう恋をしたのか~って、嬉しかったんだぜ俺たち。 まあ相手が神崎だったのは想定外だけどね」 「し、知ってたの?」 友2人の言葉に、悠は顔を上げる。そして2人を交互に見つめた。 決して打ち明けてはいけない、と思っていた恋心。 一生話すことなどないと思っていた。 でも、友2人にはとっくに見透かされていたのだ。 「おいおい悠。俺たち、意外にお前のこと見てんだぞ」 友のありがたい言葉。こんな友たちになぜ自分は隠そうとしたのか。 たとえ誰を好きになったとしても、変わるはずなどない友・・・。 悠は、心の底から後悔した。同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 「・・・言わなくてごめん」 「いいや、悠の気持ちは分かるよ。もし俺が同じ状況だったら、すぐに話す自信ないもん」 「しかし、なんでまた神崎を?」 「そうそう、悠は美咲ちゃんの代わりに告白した時、確か神崎のこと知らないって言ってなかったっけ?」 さすが、光哉は覚えていた。 美咲の想いを伝えるため、初めて化学準備室へ行くまで、悠は神崎を知らなかった。 会うのも初めてだ。 「うーん、それは・・・」 「まーさーか・・・一目惚れなんて言わないよな?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「え、なにその沈黙??」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・。 赤くなって俯く悠に、光哉と尊は顔を見合わせた。 「・・・そのまさかの一目惚れってやつ?」 「・・・うん」 「マジかーー」 頭を抱える光哉。 「そりゃ、神崎は恐ろしいほどのイケメンだけどさ。悠が一目惚れって・・・」 信じられない、と光哉はさらに頭を抱えた。 「ああー、俺の悠が神崎なんかに取られるのかー!」 「違うよ!僕が一方的に先生を好きなんだよ。」 「始めはだろ!」 ショックでコテッと倒れそうになる光哉を尊が支える。 まだこの事実を受け入れられないようだ。 「だって悠は。。。可愛いもん。マジ、男にしておくのもったいない。神崎が落ちるのも時間の問題だと思う。うん」 「は?」 「もし悠が女だったら。間違いなく付き合ってた俺」 「だな」 「はあ~?」 「自覚ないかもだけど、悠は美咲ちゃんにも劣らないぐらい可愛い」 「何言ってんの、男だよ僕」 「俺は性別は気にしないけどな」 「え?」 尊の呟きに、悠と光哉が同時に視線を向ける。 「冗談だ」 ・・・・・・・・・・・・・・・・。 ”冗談には聞こえないんですけど?" という言葉は飲み込み、光哉は咳払いをして改めて悠を見た。 「悠の気持ちは分かる。好きになったんだから仕方がない。でもな・・・」 「でも?」 言葉を止めた光哉に、悠にも緊張が走る。 「今回はやめておいたほうが良いと思う。相手は、10歳以上も年上の大人で、しかも先生で。傷つくのは悠のほうだ。それが分かっていて見ていられない。つらいのは分かるけど・・・」 「光哉・・・」 「それに・・・」 今度は尊が声を掛ける。 「意外に阿部ちゃんも本気じゃね?前は、ただふざけているだけかと思っていたけど、最近あれは本気だなと思うんだけど俺」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 友たちの言葉に、悠は何も言えなくなった。 全部が的を得ていて、真実だから言葉が見つからない。友たちの言う通りである。 生徒が教師を好きになるなんて、諦めたほうが良いに決まっている。透の本気度も、今の悠はよく分かっていた。 「・・・分かってる。光哉の言うことも、尊の言うことも。でも・・・」 「諦められない・・・か?」 「・・・うん」 『ごめん』と小さく呟く悠を光哉が優しく肩を叩いた。 「悠の気持ちは分かった。もう止めない」 「光哉・・・」 「当たって砕けても、後悔はしないだろう?」 尊も続く。こんなにも恋に悩み、苦しむ友に、これ以上止めることなんて出来ない。 あとはただ、そばで見守るしかない。 「うん、しない。ここで諦めるほうが絶対に後悔するから」 「何か有ったら、遠慮なく言えよ。慰めてあげるから」 「それ、当たって砕けたときのこと?」 「冗談冗談」 友たちに話すことによって、悠の心は軽くなった。 抱えていた重たい荷物を降ろすことが出来たかのような感覚。うまくいくか分からないけれど、やはりここで諦めるのだけは嫌だった。 もう一度、大好きな神崎に正直な想いを伝えよう。 ただ素直に、、心の想うまま・・・だが・・・・ まずその前に、避けては通れない、やらねばならないことが悠には有った。

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