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4.逃げられない

「ん……」  柔らかく温かな雲に包まれた心地で、アルマは再び目を覚ました。柔らかな日差しが、窓から入り込んでいるのを見つめ、ぼんやりした頭で寝返りを打つ。しばらくすると食べ物の良い匂いが漂っていることに気がつき、何となく気になって、怠さを訴える身体を起こす。 「う……」  少しの眩暈を感じて呻くが、すぐに収まってホッと息を吐いた。血が足りないのか、という考えが過り、眠る前の出来事を思い出して複雑な表情を浮かべる。手鏡を探して台から取って、再び自分の首元を映す。性的行為をしたというには身体がベタついてはいない。だが、大きく胸まで開いた服は眠る前のままで、眠る前に見た黒バラのような印もそのままあり、夢だと一蹴する訳にもいかなかった。そっと首筋に触れるが、傷はない。何とも言い難い複雑な思いで、手鏡を元の場所に戻した。一先ず館の構造を把握した方が良いと思い、ベッドから降りる。何となく穿いているズボンを見れば、昨日身に着けていたのとはまた違う感じの黒いズボンだ。そのズボンからも、女物の雰囲気を感じ取り、アルマはますます複雑な心境になる。 「……。」  自分はいったい、どういう扱いを受けているのだろうか。少なくとも繋がれているわけではないから、服従させようという意思はあまり感じない。だが、対等に扱われているという気もしない。今のところは周りの様子を探った方が得策だろうかと、アルマが思案していた時だった。  ガチャリと、扉の開く音がした。 「……!」  アルマはビクリと肩を揺らして、その身体を強張らせる。ルイスは部屋に入ってアルマを見ると、少し驚いたような表情を浮かべた。 「おや、起きていたんだね。」 「……はい。」  ルイスの瞳は色素の薄い銀色で、アルマは戸惑いつつも頷く。ルイスは少し困ったように笑うと、アルマの方へと手を伸ばす。 「っ……」  アルマは思わず身体を震わせて、ギュッと目を閉じる。だが、ルイスは少し躊躇うように手を彷徨わせた後に手をひっこめた。 「……もうお昼になっちゃったけど、食事を用意したから、昨日の食堂に来なよ。」 「……?」  てっきり、また血を吸われるものだと思ったアルマは、目を開けて不思議そうにルイスを見る。ルイスは扉に手をかけて、部屋から出ようとしている所だった。 「あの……」  アルマは思わず声をかけたが、その先が続かず、言葉に詰まる。ルイスは振り返り、アルマがそれ以上何も言えないと思ったのか、怪しげな笑みを浮かべる。 「逃げないで、来るんだよ?」 「……!」  ルイスは気にした様子もなく、この部屋を出て行ったが、アルマが恐れを感じて委縮するには十分だった。アルマは震える自分を叱咤して思考を巡らす――どうすればいい?  目を閉じて深呼吸する。 「……。」  今の自分には、状況に対する情報が少なすぎる。闇雲に動き回って最悪の結果を生むよりも、しばらくは館の主に従った方が良い。確か、眠ってしまう前に聞いた言葉では、「飼っている間の命は保証」すると言っていたはずなのだ。「飼われる」という言葉に引っ掛かりはあるものの、命を取る真似はしないと言っていたはずだ。様子を見るだけの余裕はあるだろう。正直に言って見通しも推測も甘いが、闇雲に動いて下手な真似をする方が恐ろしい気がする。  とりあえず、今は様子を見る方が良い。そう考えて、昨日夕食を食べた食堂へ、ルイスの言っていた通りに向かうことにした。  食堂に入ったアルマは、二人分の軽食事の準備がされているのを見て拍子抜けした。昨日は祝いと称して多めの食事を摂ったためか、昼を過ぎているらしいにもかかわらず、あまり食欲はない。それでも空腹感はあって、食事が用意されているテーブルへと近づく。食事の匂いが、アルマの部屋の中に漂ってきた匂いと同じものであると気がついた。 「ああ、来てくれて良かったよ。」 「っ……!」  ビクリと震えて声の聞こえた方へ振り返ると、ルイスがニッコリと笑って立っていた。 「さあ、座って。君のための食事だから、食べてくれないかな。サンドイッチはボクが食べるし、君はそこに座って。」 「……。」  アルマはルイスの方を見ながら、大人しく椅子に座る。ルイスも、サンドイッチが用意されている側の椅子に座る。 「じゃあ、食べようか。」 「……。」  ルイスが笑みを浮かべて紅茶の入ったカップを取るのを、アルマは呆けたように見る。視線に気がついたのか、紅茶からアルマに視線を移すと、ルイスは再び笑って言った。 「食べないのは勝手だけど、食べなきゃ君がもたないよ。変な薬は入れてないから安心して。」 「……。」  考えを読み取られたようで、居た堪れない気持ちになりつつ、恐る恐る食事に手をつけることにする。昨日と同じものであろうスープをスプーンで掬い、口の中に流し込む。昨日と同じ温かさと美味しさを感じ、思わず涙が滲みそうになるが、慌てて堪え、丸パンを千切って、口の中に放り込んだ。そうして食事を続けていく中、アルマはポツリと言葉を零した。 「その……血を……吸わないんですか……?」  ルイスは驚いた様に目を見開いたが、すぐ笑うと答えを返す。 「四日に一度でいいんだ。」 「えっ?」 「血を吸うのは四日に一度でいいんだよ。」  思わず声を漏らしたアルマに、ルイスはもう一度答えを示す。アルマは戸惑いながらルイスを見た。 「でも……夜中と朝は……?」 「ああ、アレね……。」  ルイスは困った様な笑みを浮かべる。 「お腹が、空いていたんだ。血の飢えは、普通の食事では満たされなくてね……本当は間を開けずに血を飲むなんてマナー違反なんだけど、一か月くらい血が飲めなかったし、君の血は美味しかったからね。」  何でもないように言うルイスに少し違和感を覚えたが、それでも尽きない疑問が口を突いて出た。 「血を吸った後……」  それ以上は羞恥心が邪魔をして言葉が続かなかったが、ルイスは察したらしく、飲んでいた紅茶を置いて口を開く。 「後処理の話だね。吸血鬼に血を吸われると、みんな大体催淫状態になってしまうから、それを発散してあげるのがマナーだ。」 「さい……?」  アルマが理解できなくて訊き返すと、ルイスが意地悪い笑みを浮かべる。 「要はね、エッチな気分になるんだよ。これなら分かるんじゃないかな。」 「――っ!」  アルマは声にならない叫び声をあげて、顔を赤くする。赤くなったアルマを満足げに見ると、ルイスは話を続けた。 「そういう訳で、普通は女性から血をもらうんだけどね、一か月の飢えは、流石にきつかったんだ。そんなところに君が来たから、嬉しかったよ。生きたままの人間なんて、そうそう居ないからね。」  ルイスはニッコリ笑ってアルマを見た。 「運が悪かったとでも思って、ボクの所にいた方が良い。前にも言った様に、君を飼っている間の命の安全や生活の質は保証する。君はこの館に住んで、ボクに血をくれればいい。お互い得をする、良い話だと思うけどな。」 「……。」  アルマは戸惑ってルイスを見つめた。ルイスはそれ以上何も言わないで食事に戻る。アルマも何も言えずに食事に戻る。そして、食事が終わるまで、互いに無言だった。 「ごちそう……さまでした。」  アルマは手を合わせて祈る仕草をする。食事の量自体は少なかったが、どうもやり辛くて食べるのに時間をかけてしまった。 「残さず食べられたね。良かった。」  ルイスは先に食事を食べ終え、紅茶を飲みつつアルマを観察する様に見ていた。これがやり辛かった原因なのだが、本人は気がついた様子もない。ルイスは椅子から立ち上がると、アルマに近づく。 「っ……」  アルマは咄嗟に身を強張らせる。しかし、ルイスは腕を伸ばしても届かない位置で立ち止まると言った。 「食器はそのままでいいから、館で好きに過ごすといい。館から出なければ、それでいいから。」 「……。」  アルマは、強ばる身体を無理やり動かす様に、椅子から立ち上がると、何も言わないまま部屋から出る。 「……。」  宛がわれた部屋に戻ると、その場にペタリと座り込んだ。緊張が解けて力が抜けたのだ。だが、頬を伝う液体に気がついて、息を詰まらせた。 「っ……」  怖いことは何もなかった。なかったはずなのに。  流れる涙を拭い、これからのことを考えようと深呼吸をする。それでも涙は止まらないし、頭は上手く働いてくれない。何とか立ち上がってベッドまでのろのろと歩くと、そのままベッドの上に倒れ込んだ。涙は変わらず流れていたが、そのまま逃げる様に、アルマは眠りに落ちていった。

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