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第14話 蹂躙②

 五分ほど経って、外で頭を冷やしたらしい兄が戻ってくる。バラバラになっていた懐中電灯を拾い上げて車内を照らす。急な光が痛くてまぶたを閉じた。 「何だ、ちゃんと綺麗にできているじゃないか。いい子だな」  先ほどとは打って変わって穏やかな態度だが、それが逆に異様であり、気持ち悪くて、恐ろしかった。 「……も、ゆ、ゆるして……ごめんなさい、ごめんなさい」 「何を謝っている? 怒ってなんかいないよ。さぁ、続きをしようね」  猫撫で声で言い、その場で組み敷かれる。自由になっているはずの左手を押さえられてしまい、ぴくりとも動かない。男の湿った吐息が唇を撫でる。顔を背けても徐々に迫ってくる感触に耐えられなくて、俺は両足をバタつかせた。すると男はおもむろに体を離す。 「この期に及んでまだ抵抗するつもりか」  頭上から、怒気の込もった重々しい低音が降ってくる。ひゅぅ、と悲鳴にも似た声が喉から漏れた。 「凪、どうしてそんなにもオレを拒む。昔は仲良くしていただろう。他の男には大人しく股を開いているくせに、どうしてオレを拒むんだ」  淡々とした口調だが、確実に逆上している。地獄の門が開くような、この世のものとは思えないくらい物々しい声だった。唇が慄いて、言葉すらまともに紡げない。 「ぁ、ご、ごめ……なさ……」 「お前が本当は誰のものなのか、わからせてやる」  男は煙草を一本咥えたかと思うとポケットからライターを取り出して点火する。暗闇で煙草の先端だけが橙色に燃えている。 「ふぅ。まずいな。こんなもの、健康に悪いだけだ」  力なく伏せていた左腕を口元まで引っ張られ、二の腕を噛ませられる。 「……な、に……」 「いいから大人しくしていろ。舌を噛むなよ」  何をされるのかわからなかったが、衝撃は唐突にやってきた。高温に熱した鉄の棒を突き刺されたかのような熱い痛みに貫かれる。太腿か、尻か、場所はよくわからない。熱い、熱い、とにかく熱い。皮膚が溶けて崩れていく。肉の灼ける臭いが鼻を衝く。  片足は男の体重で押さえられ、もう片足もがっしりと押さえ付けられているが、それでも体は闇雲に暴れ狂う。がむしゃらに藻掻き、足掻いて、のたうち回る。するとますます強く押さえ込まれる。  全身から脂汗が噴き出して滝のように流れた。悲鳴すら上げられずに自分の腕を噛む。肉を食い破る勢いで強く噛みしめても、焼け焦げる皮膚の痛みは和らがない。今度こそ本当に死ぬと思った。意識が遠のいていく。  混濁する意識の中、誰かの叫ぶ声を聞いた。叫ぶのとも違うか。何か大声を張り上げて、激しく争うような声だ。争いの声はすぐに遠くへ行ってしまい、狂い悶えるほど熱かった痛みも次第に引いていく。  不思議だ。死ぬと感覚がなくなるんだな。痛覚も聴覚も死んでしまったらしい。男に押さえ込まれているはずの下半身にも感覚がない。わかることと言えば、暗黒の宇宙空間に放り出されたような浮遊感だけ。まるで他人事みたいだ。これが死ぬという感覚か。 「おい」  再び誰かの声がする。 「おい、おい起きろ! 失神してる場合じゃねぇぞ!」  激しく体を揺さぶられる。 「ぅ、ん……」 「おい、シャキッとしろよ! 自分の名前、言えるか?」 「……じゅん、いち?」  揺らぐ視界に映った男の名前を答えると、そいつは俺を固く抱きしめる。暖かい。 「オレの名前言ってどうすんだよ。お前の名前を言えって」 「ぁ……アンタ、なんで、ここに」 「話は後だ。こんなとこ、さっさと出るぞ」  右手首の拘束を解かれ、服を着せられた。車の外へ出ると、四人の男があっちこっちで伸びている。 「……これ、アンタがやったのか?」 「まぁ、そう……」  准一は気まずそうに苦笑いする。 「大丈夫、死んでないから。じきに気が付く」  准一に促されるまま、スクーターの後ろにまたがった。水色に塗装されたかわいらしい車体だ。乗るのは初めてじゃない。以前、朝寝坊をして学校を遅刻しそうになった時、一度だけ送っていってもらったことがある。都合よくヘルメットが余っていて助かった。その時の准一は普段着だったが、今日は冬用の防寒具をしっかりと身に着けている。  車の中からはわからなかったが、ここは駐車場だったらしい。二十四時間営業の立体駐車場だ。寂れているように見えるのは時間帯のせいだろうか。車は他に一台も停まっていなかった。  建物の外に出ると、見知らぬ風景が広がっていた。都心からは大分離れているらしい。大きな川の向こうに工場の夜景が見え、揺らめく川の水面に無数の光が反射していた。  高速道路ではなく下道をとことこ走った。振り落とされる心配なんてないのに、俺は黙って准一の背中にしがみつく。ぎゅっとして頬を寄せる。寒風が容赦なく身を切るが、こうしていれば暖かい。准一はただ前だけを向いて車輪を走らせる。 「……この後、どうする?」  気詰まりになったのか、准一が口を開いた。風の合間を縫って、その声は俺の耳に届く。 「あー、つまり、警察とか行く? 病院の方がいいのかな」 「なんで」 「だってこれ、普通に事件でしょ。誘拐に、暴行、傷害? 怪我もしてるしさ。痛むだろ?」  確かに傷は痛む。衣服と擦れて余計に痛い。でも、 「いい」 「え?」 「どこにも行かなくていい。アンタの……あのアパートに帰りたい」  准一はしばらく沈黙する。声が届いていないのではないかと思って、同じことをもう一度繰り返した。 「聞こえてるぜ。聞こえてるけどよぉ……」  准一はまた口籠る。 「いいの? オレ、お前に酷いこと言ったし、殴っちまったしさ」 「あの程度で愛想尽かすくらいなら、とっくにそうしてる」  だからいいんだ。先生とこんなこと、異常だってわかってるけど、それでもいい。殴られたって、騙されたって、利用されていたっていい。そばにいてほしい。

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