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05:過去への扉

「寅山社長、ようこそいらっしゃいました」 「浜村くん」  受付で出迎えてくれたのは、龍崎コーポレートで総務主任を務める浜村大輝だった。浜村は社長の龍崎が一目を置いている社員で、入社当時から育てて大切にしている部下でもある。破天荒な龍崎に唯一ブレーキをかけられる人間でもあり、常識人なところも好感が持てた。 「今日はすみません、本来ならこちらからご挨拶に伺うべきところを」 「構わないよ。それに、新年の挨拶がてらにお土産も持ってきたし」  持参してきた手提げを見せると、彼の顔は途端に明るくなった。 「もしかして、一月限定の羊羹ですか? 本店に行ったんですけど正月と重なったせいか買えなかったんですよ」 「やっぱり? きっと浜村くんも買えなかったんじゃないかと思ったんだ」  浜村は甘いものに目がなく、寅山の羊羹もかなり気に入ってくれていて、いつも新作や限定品はチェックしてくれている。こうして甘味談義に花を咲かせることもしばしばあるくらいだ。  あれから龍崎も年末から年始にかけていろいろと多忙だったらしく、電話とメールのやりとり以外に顔を合わせることがなかった。そんな中、年を明けてすぐ、龍崎から寅山羊羹の担当を変えたいという連絡を受け、急遽新しい担当との挨拶の場を設けることとなった。 「新しい営業担当の篠原は俺の同期入社なんですが、元はデザイナーなので社長のお役に立てると思いますよ」 「彼もまた、面白そうな逸材だね。イチくんを射止めたほどの男だから、期待しているよ」  新しい営業担当である篠原雪兎も、実はまったく知らない間柄ではない。寅山と龍崎と同じ同級生である黒川一狼の、今の恋人だ。二人がいろいろあって、ようやく交際を始めたのは記憶に新しい。  いつもの応接室に案内され、寅山は革張りのソファに腰かけた。 「それでは篠原を呼んできますので」 「うん。じゃあ、浜村くん、また今度食事でも行こうね」 「はい、ぜひ」  穏やかな笑みを残して、浜村は部屋を出ていった。  龍崎もだが、たとえプライベートで密な関係であっても彼らはきちんと仕事をしてくれるので、こちらも遠慮なく言いたいことが言えている。そんな彼らだからこそ、この営業担当の変更も、それほど危惧していなかった。  ただ、今回は営業と一緒に担当デザイナーも変わると聞いている。今まで、寅山が社長になってから、すべての販促品、ポスターなど、黒川が担 当していた。黒川は実に器用な男で、元は服飾デザイナーだが、企業デザインにもその能力は発揮され、こちらの要望通りのデザインを仕上げてくれた。  寅山羊羹は、いわゆる老舗の企業で、社長以外の幹部は寅山の家系の人間で、年配の重鎮が占めている。古き伝統を大切にするあまり、新しい風 を吹かせようとする意識が欠けているどころか、断固拒否に近い。今回のデザイナー変更の件については、すでに株主の耳に入っており、危惧する声も多いと聞 く。  そんな寅山の心配をよそに、新しいデザイナーのことを龍崎は『良くも悪くも、龍崎コーポレートらしいデザイナー』と評していた。それにデザイナーが自ら、寅山羊羹を担当したいと言い出したという。  だからといって寅山羊羹を熟知している龍崎が何も考えずに使えない人間を担当させるとは思えないが、寅山は、なんだかあまり気が進まなかった。 「失礼します」  席に座って五分ほど経過しただろうか。ノックと同時に、扉が開けられ、顏をのぞかせたのは見覚えのある人懐こい笑顔、篠原だった。 「寅山社長、お待たせしてすみません」  いそいそと寅山のそばに駆け寄り、胸元から名刺入れを取り出す。寅山は立ち上がって、篠山の両手で差し出された名刺を受け取った。 「改めまして、篠原雪兎と申します。その……一狼さんには……お世話になってます」 「寅山羊羹取締役社長、寅山喜之助です。こちらこそ、イチくんが迷惑かけてない?」 「とんでもない! 一狼さんはいつだって俺のことを第一に考えてくれて、叱ってくれます」  真っ先に叱られているという言葉が出るあたり、黒川の尻に敷かれている様が浮かぶ。友人ながら、黒川はなかなか偏屈な男なので、苦労すると思うが、この男の器の大きさは言葉を交わしただけで垣間見える。安心して黒川を預けていい相手だと寅山は認めている。 「あ、でも、一狼さんのことはお仕事には関係ありません。誠意を尽くして担当させていただきます」 「ははは。そんな心配してないから大丈夫だよ。篠原君こそ、やりにくいよね。僕は、慎也ともイチくんとも関わっているし」 「いいえ。歴史と伝統のある寅山羊羹様に貢献できるのは、営業としてやりがいがある仕事です。むしろ、楽しみです!」 「それは心強いね」  篠原に、どうぞ、と着席を促され、寅山は座る。その様を見届けて篠原もソファに座る。  前担当の獅子ヶ谷の人なつこさは、相手の懐に入り込むような、天性のかわいがられ体質のようなものを感じるが、篠原はどちらかといえば低姿勢で謙虚で、人柄の良さが滲みでている。素質的に は、営業に向いていると思う。デザイナーをしていたと聞いているので、まだスーツを着慣れていない感があるが、それもじきに慣れるだろう。それに、どちらかと言えば、寅山が変更を懸念しているのは、担当デザイナーのほうだ。 「で、蛇原さん、は?」 「デザイナーの蛇原は、客先からの戻りが遅れておりまして……。先ほど、連絡がありましたので間もなく来るかと」  遅れているのなら、好都合かもしれない。寅山は、声をひそめて篠原に聞いた。 「篠原くんから見て、彼はどういうデザイナーなのか、聞かせてくれない?」  龍崎の意見だけでなく、他者からの評判も参考にしたい。そんな気持ちからだったが、篠原はなんの抵抗もなく、そうですねぇと言葉を捻るように話し始めた。 「わかりやすく言うと蛇原さんは、一狼さんとは正反対なデザイナーです」 「正反対?」 「ええ。蛇原さんは商業デザイナーとしてずっとやってきた人で、ロゴやシンボルといった幾何学系のデザインを得意としています」 「ほう」 「二人は、性格が几帳面なところは似ているのですが、作品はまったく違います。社内では、流線や曲線美といった美を追及する一狼さんと、直線や多角形など計算された美を重んじる蛇原さんという認識で、担当する仕事を分けていました」 「なるほど」  篠原の説明は、専門分野に詳しくない寅山でも理解できた。もともと龍崎は、黒川にデザインを担当させることが念願だったので、その理由については疑いもしなかったが、もとから黒川のデザイン傾向は寅山羊羹に向いていたのかもしれない。それも龍崎の計算の範疇なのかは、わからないが。 「なので蛇原さんが、この仕事を担当したいと言ったのは意外でした」 「確かに」  本人が希望したという情報は、当然篠原の耳にも届いているようだ。所詮、羊羹屋の販促品なんて、篠原の言う、彼の好みのデザインができるとは思えない。 「俺からしたら、社長が了承するのも、意外でしたけどね」 「彼には、何か、社内において政治的な思惑があるのだろうか?」  もし、社内の評価を集めたい、などといった思惑なら仕事のクオリティにも直結するので、問題ないと感じるのだが。 「どちらかといえば、蛇原さんは寅山社長に興味があるみたいでした」 「僕?」 「はい。雑誌のインタビュー記事を熱心に読んでおられました。お会いするのも楽しみにされてましたよ」 「インタビュー記事……?」 「はい。俺も読みました! 月刊ダイヤモンドダストの記事、とても興味深かったです」  ああ、と寅山は一瞬顔を曇らせた。 会社の年老いた幹部があまり派手な広報活動を好まないこともあって、以前から会社に関する取材の類は受けていない。ただ、このダイヤモンド ダスト誌の取材申し込みだけは特殊だった。もともとは龍崎からの紹介で、話だけでもと言われ、半信半疑で取材内容を聞いてみたところ、経済誌にしては珍し くセンセーショナルな内容であり、いかにも龍崎の好きそうな革新的なものだった。 もとから老舗企業である寅山羊羹が典型的な同族企業であることは周知の事実だが、それを表に出すことは食品業界はもとより、企業間で暗黙の タブーとされていた。ところが、そのダイヤモンドダスト誌は、あえてその世間の目を逆手にとり、現社長である寅山に今までに仕掛けてきた新商品戦略などを 自ら説明させ、伝統ばかりに囚われず和菓子メーカーの頂点を虎視眈々と狙っていると宣戦布告するような挑戦的な記事に仕上げてきたのだ。  実は、雑誌が発売したその日に、内容を知らされていなかった幹部達から、寅山は大層、お叱りを受けた。雑誌の出版停止、買い占めも辞さないという臨戦態勢の中、雑誌はその内容の過激さゆえに話題になり発売日から飛ぶように売れたらしい。そして、記事の効果か、寅山羊羹全体の商品の売り上げも大幅に底上げされた。親の七光りである自分を支えてくれた社員達に感謝をしているといった内容の寅山のインタビュー記事が功を奏したのか、中途採用の応募が殺到し、人事が大混乱になったのも記憶している。  結果、寅山羊羹にとってはプラスになったが、一歩間違えば大損害だった。後日談で、実は龍崎が出版社にネタを持ち込んで仕掛けていた戦略だったと聞き、心臓に悪いと龍崎に文句を言ったが、本人はしてやったり顔だった。 「蛇原さんは記事を読んで、僕を気に入ってくれた、ってことかな」 「はい。そうだと思います」  記事を読んで自分に興味を持ってくれた、それだけであればありがたく承諾するところだが、寅山にはずっと気になっていたことがあった。取材 の類を受けない理由は、あまりメディアに自分の顔写真を載せたくないと思っているのもある。自社のホームページにすら、寅山は写真掲載を許可していない。自業自得なのだが、過去に不特定多数の人間と性的関係を持った事実がある限り、多くの媒体に顏を晒すのは得策ではないと心得ている。以前か ら、雑誌やテレビなど顏の露出する取材は一切断っていたが、今回だけは白黒記事ではあるが、インタビュー風景として寅山の近影が掲載された。そのあと、何か動きがあったわけではないが、正直、最悪のケースも考えなかったわけではない。  当時、ネットの出会い系掲示板で、手当たり次第、男に食われていた頃のメールやID、パソコンに至るまでその痕跡はすべて消した。社長就任 にあたり、そうした過去はなかったものとしたかったからだ。正直、そこまでしなくてもよかったと思う。少し神経質すぎたかもしれない。なぜなら、自分は、 一度体を合わせた人間とは、二度と会わないというルールを課していたので、偶然出会う確率も、身元がバレる確率も普通に考えたら低い。ただ、肉便器として扱ってほしいだけの体の繋がりに、感情など持ち合わせるつもりもなかったし、何より一期一会だから楽しめると考えていた。  それでも過去、たった一人だけ、何度も体を繋げた人間がいた。寅山を全裸で縛り上げた上に、山中で放置したあの男だ。今思えば、そのたった一人のせいで、龍崎に自分の不埒な性癖が知れてしまう結果になった。もちろん、今の立場になってからは信頼のおける、プライバシーの守られた環境でしか、体を預けていない。龍崎は、自分が男の風俗を呼んでい ることに気づいてはいるかもしれないが、寅山が言わないせいか、面と向かっては触れてこない。すべて知っているのは、運転手の柴田だけだ。  過去は過去で否定するつもりはない。ただ、誰にだって封印しておきたい過去のひとつやふたつはあるだろう。ただ、あの男の存在は、自分にとって危険だった。それだけのことだ。 「失礼します」  そして応接室の扉が開き、入ってきた男に寅山は目を疑った。 「あ、蛇原さん」 「篠原くん、ごめんね。道が渋滞していて、ひどい目にあったよ」  男は、開いているか閉じているか、わからないくらいの細い目の男で、低く甘い声に、その語り口調は柔らかかった。表情は薄ら笑顔を浮かべていて、感情の起伏を感じられない。 「寅山社長、紹介します。デザイナーの蛇原です」 「おまたせしてすみません」  覚えている。この優しい声音は、ひとたびプレイに入ると、甘い声のまま容赦なく快楽の底の底まで深く突き落とす。 「寅山社長、どうかしました?」 「あ、いや、すまない……」  篠原に促され、寅山は慌てて立ち上がる。 ――信じられるだろうか。再び出会ってしまうことを一番危惧していたあの男が、こうして目の前にいるなんてことを。

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