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06:寅を喰った蛇

 黒のタートルネックセーターの上にはマスタードカラーのジャケット、コーデュロイのパンツを着こなしている細身の男は、目を細めて笑った。あの頃よりも少し痩せたようにみえるが、間違えようがない。名前も素性も知らないが、その顔と声と性戯のすべては忘れない。今でもなお、寅山の記憶に深く刻まれていることだろう。 「"はじめまして"、寅山社長。蛇原誠司と申します」  わざと初対面を強調されたということは、おそらく男は、寅山が今、考えていることを理解している。けれど、今は、この場をやり過ごすことが大事だ。寅山は素直に合わせることにした。 「はじめまして、蛇原さん。寅山喜之助です」  差し出された名刺を確認すると、肩書はデザイン課の課長となっていた。社内においてそれなりの役職があるということは、当然実力も伴って、のことだろう。 「どうかしましたか、社長」 「あ、いや。なんでもないよ」  篠原に声をかけられ、名刺を見つめて呆けていたことに気づく。慌てて座り直すと、蛇原はその細い目をますます細くさせて、穏やかに微笑んだ。 「感激だなぁ。ずっとお会いしたかったんですよ」 「蛇原さん、寅山社長が掲載された雑誌をいつも見てましたもんね」 「あの記事は、僕を少し持ち上げ過ぎですけどね」 「そんなことありません。龍崎社長や、獅子ヶ谷くん、篠原くんから話しは聞いています。僭越ながら、寅山社長のお立場を考えると、心労はかなりのことと存じます」 ――だからあんな乱れた性を求めても仕方ないとでも?  この場に篠原がいなければ、問いただしていたかもしれない。どれだけ綺麗事を並べられたところで、この男の前で自分は腰を振り、髪を乱して、叫ぶように喘ぎ、求めない事実は消せやしない。体を重ねたのは一度や二度ではないのだから。 ――目の前に現れた目的はなんだ。地位か? 金か、それとも別の何か?  目の前で蛇原と篠原が談笑していても、その内容が寅山の頭に入ってこない。そもそも、なぜ、この男が目の前にいるのだろう。二度と会うはずなかった相手だと思っていた。  自分に会うために何をした?  雑誌の記事ということは写真を見て特定したというのか?  だとしたら、蛇原以外にもあの記事を見て、特定されてしまったらどうなるのだ。一度会っただけで顏を覚えられていることだってある。もし、そうなら自分は―― 「寅山社長?」  篠原の声で我に返る。 「……すまない。少し考え事を」 「すごい汗ですね。具合、悪いのですか?」  今の自分は、表の顔を死守しなくてはいけないのに、脂汗だけが額を伝う。着物の内側にもじっとりと汗をかいている。 「篠原君、悪いけど私の机の上にあるファイルケースを持ってきてもらえないか?」 「え、はい。いつもの黒いやつですか?」 「そう。悪いね」  まずい。このまま篠原が部屋を出てってしまっては、蛇原と二人になってしまう。まさか、何かをされるわけではないと思うが、二人きりになる状況は極力避けた方がいいだろう。篠原を呼び止めようとしたが、すでに遅く、すぐに戻ります、と寅山の返事を聞くこともなく、篠原は笑顔で応接室を出て行った。 「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ」  まるで、この機会を待っていたとばかりに蛇原は微笑んだ。 「どういうつもりだ?」 「つれないな。前は私の顏を見たら、悦んでくれたじゃないですか。ああ、正確には疼いて、かな?」  他人のそら似というやつではないかと、僅かの可能性を考えた。けれど優しい声音なのに、相手を自然と上から制圧する話し方は、間違いない。それに、間違いない根拠はもうひとつある。この声を自分の体はちゃんと覚えているのだ。抗えないことも。 「まさか、あの品行方正で温和な寅山羊羹の社長が、あの淫らなClassic Sweetサンだとは思いもしませんでしたよ」  その単語に寅山は眉をひそめる。ひょうひょうと答える口調に、寅山はすっかりペースを乱されていた。蛇原は、まるで昔の旧友に会えて喜んでいるような言い方をするが、こんなことに喜べるはずがない。何より蛇原の目的が、わからないままなのだから。 「僕にどうしてほしいんだ。何が目的だ」 「もうその話をしますか? 篠原くんが戻ってくるまでに終わらせたいのかな」 「答えろ。金か? 脅迫でもしたいのか?」 「まさか。確かにやろうと思えばできますね。でも私にはそんな度胸はありませんよ」  全裸の寅山を山中に見捨てるのは度胸がいらないというのか。 「私はまた貴方に相手をしてほしいだけです。これでも、貴方のことをずっと探していたんですよ」 「探してた? 僕を?」 「そりゃそうですよ。私は貴方のことをとても気に入っていましたからね。貴方以上の人に、いまだに出会えていませんから」 「あんなことをしたくせに……?」  もちろん過ぎたことを恨んでいるわけではない。ただ、プレイの一環であれば、エスケープできる手段は残しておくのが礼儀というものだ。度を過ぎたプレイをする相手に、身を委ねることなんてできない。 「あのときの私は、もっと貴方を知りたかった。それだけですよ。正確には、貴方の限度を測りたかった。私もまだ幼かったんですかね」  ふふ、と穏やかに笑う蛇原は、さも悪気がなかったかのように話す。だからといって許されることではない。 「逆に、貴方に聞きたいです。あれから、私以上の相手に恵まれましたか?」 「そんなことは君には関係ない」 「なるほど。嘘がつけないのは、体だけじゃないんですねぇ」 「いい加減に……!」 「いいでしょう。今日のところは私の気持ちを伝えたということで終わりにしておきます。そろそろ篠原くんも戻ってくる」  確かにこんな話を長引かせるわけにはいかない。だからといってまた蛇原の相手をするなんて、まっぴらごめんだ。 「担当は戻す。僕から慎也に言う。僕が君と関わりたくない」 「ああ、その分だと、龍崎社長も貴方を満足させられてないのですね」 「ふざけるな!」  思わず、寅山は立ち上がる。こんなに感情を荒げたのは、いつぶりだろう。 「図星なんだですね。まぁ人には得意不得意がありますよ。貴方を満足させられる人間なんて、一握りだ」 「わかったような口を……」 「わかりますよ。貴方は私と同じ側の人間だ。禁断の快感を知ったら、そう簡単に戻れやしない。違いますか?」  違わない。違わないことを知っている。それでも、まだ自分には昼間の顏がある。今までだって、乱れた夜の自分に、品行方正な仮面を被せて、そのどちらも守り続けてきた。 これからだって守るつもりだ。 「私のこと、同級生の龍崎慎也くんに言えばいいじゃないですか。別に口止めもしませんよ。どこまで話すも、貴方の自由です」 「僕がすべてを話したら君の立場だってまずくなる。お互い、関わらずに生きていけばそんな心配をしなくて済む。違うか?」 「でも私は貴方が忘れられない。だからこうして直接お願いしているんじゃないですか」 「断る」  キッと睨みつけたところで、蛇原の表情に変化はない。もとから感情の読めない男だった。だから、手加減しない非情な責めに、心が躍った。そんな抗えないところが魅力的だと思ってしまったのだ。 「それにしても安心しました。貴方の中で今でも、私が一番なのだとわかった」 「失礼する!」  蛇原の顏も見ずに、寅山は応接室を足早に出る。草履で早足で、廊下を歩き、エレベーターホールに出た。下のボタンを押す手は震えていた。冷静さを欠いていた。それは認めざるを得ない。 『貴方を満足させられる人間は一握りだ』  蛇原の言っている意味もわかる。龍崎はもちろんのこと、風俗に頼っても満足はできていない。ただ、足りない分を数で補っただけに過ぎない。それは、かつて自 分を満足させてくれた蛇原の影に、ずっと足を囚われていたというのか。なら、なぜ自分は拒否を選ぶのか。受け入れることが正解なのか。夜の自分なら受け入れていたのだろうか。蛇原よりも、蛇原を完全に拒絶していない自分のことが何より一番許せなかった。  エレベータがようやく到着して、扉が開く。ここまで蛇原が追いかけてくることも危惧したが、それはなかった。元からそういう男ではない。彼は、罠を仕掛けて巣穴で待つタイプの人間で、今は寅山が近づいてくるのを待っている。  開いた扉の中には誰もおらず、乗りこんで一階のボタンを押し、安堵の息をつく。それでも終わったわけじゃない。むしろ始まったばかりだ。ほっとしたところで着物の袂でスマホが揺れる。取り出して画面を見れば、龍崎からの着信だった。そういえば、後から社長室に寄れと言われていた気がする。渡すはずだった羊羹の入った紙袋は応接室に置いてきてしまった。電話を取るのを迷っていると、すぐに着信は収まった。  正直、今は龍崎と話したくない。いや、誰とも話したくない。早く一人になりたい。冷静になって、頭を冷やしたい。何をどうするべきかなんて、すぐに答えは出ないだろうけれど、それでも誰にも頼れない。  エレベータが一階に到着し扉が開き、飛び出すようにビルのエントランスを抜ける。太陽は高く、陽射しが眩しい。スーツの人間が往来を歩く。馴染みのある昼間の風景は、自分が常識ある社会人であると思い知らせてくれる。  早めに切り上げてきてしまったので、運転手の柴田に電話をしなければ、と再び携帯を取り出す。画面には、メールの着信があった。普段、携帯には会社のメールが転送されてくるが、通知は切っていたので気づかなかった。仕事に関する連絡かもしれないと何気なしメールを開くと、差出人が不明だった。迷惑メールを受信してしまったかもしれないと思ったが無意識にスクロールし、添付された画像が寅山の目に飛び込んできて、寅山は凍りついた。  写真は、目隠しをされた全裸の男の写真で、間違いなく、あのときの自分だった。今よりも痩せていて、色白の体の、首から下、いわゆる着物で隠れる部分には無数の縄の跡を残している。それが自分の常だった。そんな自分のあられもない裸体を撮影できたのは、あのときルール違反である目隠しをした蛇原しかいない。そして『Dear Classic Sweet』というタイトル。ClassicSweetはかつて、寅山が名乗っていた通り名で、それを知っているのは当時、寅山と体の関係があった者だけだ。  蛇原とのプレイでは縛られたまま天井につらされることや、首と手首を処刑台のように拘束されて後ろから犯されることだってあった。それをすべて、嬉々として受け入れていたあの頃の自分に、蛇原のプレイはどんどんエスカレートしていった。もう自分では歯止めが利かなくなっていることにも当然気づいていて、あんな風に外に放置されるという行為は禁忌であるが、自分達以外の人間の目に晒されるということでもなければ、この関係を断つことはできなかっただろうと思う。  今の自分は、周囲から隔離された根城で、複数の男とプレイする時間を金で買っている。それである程度の欲望は満たしているが、最高の快楽の味をいまだに覚えているのが厄介だ。ときに、昔が懐かしくなることがある。  次にまたKillerSneakと交わる機会があるのなら、今度はエスケープと呼ばれる、本当にやめてほしいときの合図を決めてルールさえ守れば、と頭をよぎったこともある。それでも自分はあえて男を探すことはしなかった。今の自分はあの頃の自分とは違う。組織の頂点に立ち、守るものもある。自分の失墜は、そのまま組織の失墜を意味する。  しかし、あの画像を見て、一瞬にして当時の記憶は引き戻された。驚き、憤り、怒りのあと、信じられないことに体が疼いてしまった。快楽の味をたとえ忘れられなくとも、もう戻ることはしないと決めていたはずだったのに、結局、自分は男に突っ込まれて悦ぶ肉便器なのだ。  あの日、自分をはじめて抱いた男が『肉便器にしてやる』と言ったその呪縛は三十八歳になった今でも解けないでいる。そしてそれを苦痛に感じていないことに、呆れるを通り越して、所詮自分は堕ちる運命にある人間なのだとさえ、思うのだ。

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