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07:寅は龍に抗えない

 あれから二時間ほど経って、寅山は柴田に迎えには来させず、徒歩と電車で会社に戻った。  寅山羊羹は1階が店舗になっていて、2階より上がオフィスになっている自社ビルだ。店舗には、いつものように客で賑わっていることを横目で確認し、そのままオフィスのエレベータへ向かう。受付の女性が二人、寅山に気づき、頭を下げる。いつものように軽く手をあげてそれに応じる。 ――そうだ。いつもと同じだ。  動揺した自分が通常の自分に戻るのに、二時間は少々足りなかったかもしれないと思う。でも、他の誰にも自分の動揺は気づかれるわけにはいかない。  社長室の前でカードロックが解除されていることに気づき、寅山は、はぁとため息をつき、そのまま扉を開けた。 「おっせーな」  奥の革張りの自分の椅子に横柄に座り、足を机に投げ出した行儀の悪い男が声を荒げた。  龍崎が心配して、様子を見に来ることは予想していた。もとから暇な人間ではないはずだが、きっと好奇心のほうが勝ったのだろう。 「あのさ、いくら僕が戻るのが遅くても、土足で机に足をあげていい理由にはならないよ」 「打ち合わせ途中で帰るやつに言われたくねーな」  その躊躇のない言い返しは、それほど鋭くない凶器で押されたような鈍い痛みを心に感じる。 「悪かったよ。ちょっと体調がすぐれなくて」  寅山は龍崎に向かって、緩く微笑んだ。 組織の頂点に立つためには、ポーカーフェイスが必要だった。そのせいか、いつからか、自分は常に笑みを絶やさなくなっていた。よく五代目社長は温和で優しいと評される。内面の醜い部分を少しでも隠せるのなら、それでいいとさえ思っている。 「気味悪い顔、してんじゃねーよ」  そしてこの男、龍崎はそれが本心じゃないとわかるらしい。もちろんその指摘について、否定も肯定もしないのも、いつものことだ。 「で? 坊っちゃんは、何が気にくわなかったんだ」 「何もないよ」 「当ててやろうか、蛇原だろ」   あまりにも躊躇なく引き当てられ、さすがの寅山も言葉に詰まる。その昔、警察から連絡を受けて、龍崎が迎えてきてはくれたが、蛇原を直接見たわけではない。もしかしてすでに蛇原が龍崎に一部始終話していて、自分との関係を知られていたとしたらーー 「俺も正直、蛇原は好きなタイプじゃない」 「え?」  雲行きが予想と違った方向に向いていることに気づく。 「なんつーか、同族嫌悪って言うんかな。腕は確かだって知ってたから、俺が今の会社に引き抜いたんだけど」 「そうなんだ」 「時々、見えるんだよな。ギラギラしたとこ。名前のとおり、獲物狙ってる蛇みたいな目をするときがある」  どうやら、龍崎は、寅山と蛇原の過去については、何も知らないようだ。別に今さら必死に隠すことでもないが、蛇原のことはなぜかあまり龍崎には言いたくないと思ってしまう。もう龍崎は、自分の恥部なんてこれ以上ないというほど見せている相手だというのに。 「だから、今回の担当替えで、あいつの腹ン中を見てみたいってのはあるんだ。なに考えてるか、イマイチ掴めないしな」    わからないと言いながらも、龍崎は楽しそうだ。 「そんなことに僕の会社を巻き込むのはやめてくれないか」 「カタイこと言うなよ。それにこれはおまえのためでもあるぞ、社長サンよ」  毎度のことであるが、龍崎の頭の回転の早さには常人では追い付けない。もちろんそれは、長い付き合いの寅山も例外ではない。寅山の半信半疑な表情を楽しみながら、龍崎は自分のスマホをいじり、寅山にさしだした。 「これは?」 「蛇原の企画書」  そこには、寅山羊羮株式会社様向けプレゼン資料と表題が記されていたタイトル画像があった。寅山が指でそっとスワイプすると、そこにはポスターや、販促品やノベルティ、既存製品のパッケージに至るまで、綿密にデザインされていた。今まで、黒川が築いてきた寅山羊羹のコンセプトとは毛色の違う斬新なものではあるが、和風テイストは損なわれることなく、特に羊羹を思わせる多角形をモチーフにした包装紙デザインは一目見ただけでも、心を踊らされるものだった。 「なるほど。実力は、認めるよ」  寅山はそのままスマホを龍崎に返しながら、負け惜しみのように呟いた。 「俺はおまえの会社を大きくするって言っただろ? だから悪い話じゃない。それは理解してくれ」  もちろんそれはわかっているつもりだ。龍崎には先見の目がある。今までの実績から見ても明らかだ。友達であると同時に、その手腕は認める。でも、やはり蛇原には関わりたくない自分がいる。それも心底苦手だとか、嫌いではないからこそ、なおさらだ。また再びあの底無しの沼に足を踏み入れてしまいそうな自分を、抑える自信がないのだ。次は大丈夫だなんて保証はひとつもない。  それに、大丈夫であることを望んでいない浅ましい自分の性を、自分が一番理解しているのだ。 「というわけで交渉成立だな」  返事なんてしていないというのに、龍崎は話を終えて立ち上がる。龍崎は絶対的に自信があるときは、寅山の意見は聞かない。寅山が龍崎を論破できるほどの反論を持ち合わせていない時点で、この試合は投了なのだ。 「ねぇ、慎也」  社長室から出ようとしていた龍崎が振り返った 「あの男と組むことが、僕のためだって思ってるんだよね?」  ふ、っと龍崎は笑った。 「俺の、ためだ」  ばたんと扉はしまった。  当たり前のことだった。龍崎はそもそも『誰かのため』を最優先で動く男ではない。 どうせ今回だって、面白そうだという理由に決まってる。それで結果さえついてこれば文句ないだろうと言わんばかりだ。  龍崎には経験がないのだろうか。 冷静な判断ができないくらいに感情で動いてしまうことだって世の中にはあるということを。  あのとき、日常を捨ててこのまま犯され続けたいと思ったように、快楽がすべてを凌駕してしまうこともあるということも。 *** 「というわけで納品については以上になります」 「ごくろうさま。あとはうちの総務から、篠原くんに連絡させるね」 「はい。お待ちしてます。課長、他に質問はありますか?」 「ないよ。篠原くんがちゃんと根回ししてくれたおかげだね」  蛇原はとなりの篠原に向かって、にっこりと微笑んだ。 「俺なんてぜんぜんですよ。寅山社長にも何度も同じこと確認してたり……」 「そんなことないよ。僕も忘れてることがあるから、助かってる。篠原くんはちゃんとしてるよ」 「やめてくださいよ、二人して」  篠原はよほど恥ずかしかったのか、自分と蛇原と目を合わせないように顔を伏せて、書類を片付け始めた。  結局、あれから、篠原と蛇原と改めて打ち合わせをし、正式に寅山羊羮の新しいプロジェクトが二人によって進められることになった。蛇原のデザインは、役員達にも好評で、トントン拍子に話はすすみ、四月から紙袋から包装紙、ホームページに至るまで、すべてのデザインが一新されることに決まった。基本コンセプトと契約に関わるところだけは、寅山が確認することになっているが、その後は社内の総務が窓口になる。すでに何度か、龍崎の会社で打ち合わせをしているが、二人と自分が顔を合わせるのは今日がほぼ最後だろう。  その後、蛇原とは二人きりになる機会はなく、当然、メールも、添付されていた画像についても話をしていない。ほんの束の間、篠原が席をはずし、二人きりになることがあっても、この前のようにけしかけてきたりすることもなかった。何も言ってこないほうが、気味が悪い。このままだと、自分と蛇原の過去のこともなかったことになるのだろうか。もちろん、それでいい。このまま何事もなく、穏便に済ませられれば一番いいに決まってる。そう願っているはずなのに、蛇原に会うたびに、自分の中に眠っている欲望が、何もなかった一日に落胆している。  自分はいったいどうしたいんだと自問自答するが、答えは気づかないふりをしている。  心は拒絶するくせに、肉体は過去の快楽を思い出したい。社会的立場を考えて自分から言い出せないかわりに、強引に犯されて既成事実を作りたい。 そう思い詰め始めている自分に気づき、寅山のストレスは溜まる一方だった。 「そうだ。寅山社長、来週にでも食事の場を設けさせてください」 「おや。慎也から接待費でも出たのかい?」 「ばっちりですよ! 社長にも同席をお願いしたのですが、三人で行けと言われてしまって」 「まぁ、彼も忙しいからね」  最近、龍崎とは顔を合わせていない。もともと自分達は、何より自分の仕事を優先するワーカホリックな一面がある。だから、都合があえば毎日でも顔を合わせるときもあるし、こうして数ヵ月くらい間が空くこともある。 「今回のお相手は、なかなか手強そうだからな」 「ちょっと、課長」  篠原が慌てて、蛇原を制止する。相手というのは女性のことだろうか。寅山の表情に蛇原はいち早く気づいた。 「あれ、寅山社長、ご存じないですか? 今の社長の恋人のこと」 「恋人?」  まったく初耳だ。龍崎はもともとストレートだし、そんな話があってもおかしくない。年齢的にも付き合いで見合いを持ちかけられることも多くあり、おまえが断っておけと押し付けられる、と浜村がぼやいていたのを以前聞いたことがある。本人は、わざわざ話すことでもないと思っているようだが、どうやら恋人ができたり、別れたりというのは、頻繁にあるらしい。  話題のついでに聞いてみるときもあるが、どの関係も短命に終わってしまうようだ。 「えっと、だいたいいつも女性のほうが夢中になるので、社長が逃げ回っていて、社長に恋人ができたときは社員のほとんどが知ってるんです」 「今は、頭取の娘だっけ。今度ばかりは逃げられないんじゃないかな」  今は、という言葉に、もしかして龍崎には、現在進行系で恋人がいるというのだろうか。最近ならまだしも、去年の終わりには自分と体をつなげている。そもそも、龍崎は自分が呼び出したりしたときに断ったことがない。そういう相手がいるときも、構わず自分の元に駆けつけていたのだろうか。 「寅山社長、うちの社長の好みってどんな女性なんですか?」  篠原に尋ねられて、はっと我に返る。 「慎也の好みかぁ。それは難しい質問だな」  もともと龍崎から女性関係の話を直接きいたことなんて、今まで一度もない。学生の頃も、付き合っていた相手はいたようだが、誰かが噂しているのを聞いたという程度だ。それに恋人がいても、ノロケたり、愚痴を言うタイプでないし、普段とまったく変わらないので、そんな相手がいることに寅山が気づかないことが多い。 「篠原くんみたいに、女性だけとは限らないんじゃないかな」 「蛇原さん、何を……」 「君は私が知らないと思ってる? 君の恋人が黒川チーフだってこと」 「あ、えっと、その」  その篠原の様子からすると、蛇原には黒川のことを話していないようだった。 「別にやましいことはないのだから、堂々としていればいいじゃないか。寅山社長もご存知でしょう」  急に振られ、篠原が不安そうにこちらを見ている。 「知ってはいますけど、僕や慎也はイチくんと同級生という関係だから知っているだけです。二人のことは、二人の意志を尊重してあげればいいんじゃないですかね」  確かにやましいことも、後ろめたいこともないとは思うが、こうして表に引っ張り出されるようなことでもない。 「へぇ、寅山社長は寛大ですね」 「人それぞれというだけのことですよ」  あまり助け船になれなかったが、篠原は少し安堵していたように思う。 「まぁ篠原くんは、チーフに褒めてもらうんだな。今回の寅山羊羹さんの件はよく頑張ったし」 「いえ、まだ俺なんて慣れないことばかりで」 「私も君みたいに幸せになりたいよ。なかなか想いが通じなくてね」  笑いながら話す蛇原の言葉に、とくんと心臓が跳ねる。 「蛇原さん、好きな人がいるんですか」 「内緒だよ。君もよく知ってる人だ」  そして、細い瞳が、ちらりと寅山を盗み見る。 「え?」  それに気づいたのか、篠原が自分と蛇原の顔を見比べる。 「蛇原さん、からかわないでください。篠原くんが誤解するでしょう!」 「私は別に誤解されても構わないんですが」 「え? そういう、ことなんです?」  慌てて否定するが、悪戯な顔で楽しそうに笑う蛇原に、篠原は、パァッと顔を明るくさせる。 「篠原くん、違うから。蛇原さんはからかってるだけで……」 「でも蛇原さんずっと、寅山社長のこと気にされてましたもんね! 俺、気づかなかくて、すみません」 「応援してね?」 「もちろんです……! あ、でもこういうことはお二人で話し合ってから……」  一体、目の前の二人はどうしてそんなにはしゃいでいるのか。蛇原が、自分に対して望んでいるのは肉体関係だけだと思っていて、気持ちのことなんて考えもしなかった。確かに、蛇原とは体の相性が悪くないことは知っている。ただ、色恋沙汰に関しては、めったく別に次元だ。 「楽しそうだな、オイ」  突然、扉が開いたと思ったら、鞄を手にした龍崎が部屋に入ってきた。 「社長!」  篠原と蛇原が慌てて立ち上がる。 「外まで聞こえてたぞ。ずいぶん盛り上がってんな」 「すみません……あ、打ち合わせは終わりました」 「接待の話はしたか?」 「はい!」 「そうか、普段こいつが、行かないようなとこ連れてってやれ」 「わかりました。探しておきます」 「頼んだぞ」  どうやら龍崎は本当に行かないらしい。別に来て欲しいというわけではないが、獅子ヶ谷と黒川だったときは、むしろ率先して顔を出してくれていたような気がしてなんとも言えない気分になる。  篠原と蛇原の仕事ぶりは満足している。けれど、顔を会わせていないせいか、龍崎と距離を感じてしまう。蛇原のいうとおり、恋人という存在が影響しているのだろうか。 「俺はこのまま帰る。寅山、送ってくれ」 「え、ああ、うん」 「柴田さん来てるぞ。車、見えたから」  時計を見ると、柴田が迎えに来る時間より、10分ほど過ぎていた。 *** 篠原と蛇原に見送られながら、柴田の車に龍崎と乗り込んだ。いつものように、龍崎は煙草に火をつける。ZIPPOの匂いも久しぶりだ。 「家まで送ればいいの?」  ふと聞いた言葉に龍崎が反応する。 「何、やりてぇの?」 「そ、そういう意味じゃないよ」  ふとさきほどの会話を頭をよぎる。龍崎には恋人がいると知った今、軽率に挑発なんてできるわけがない。 「もう君とは、そういう関係にはなれないよ」 「なんだよ、らしくねぇな。あいつらに何を吹き込まれた?」 「吹き込まれたっていうか……君に、その恋人がいるって」 「ああ、そのこと?」  予想以上に、軽い返事に驚く。 「あのさ、そういう相手がいるなら言ってよ」 「言ったら、なんか変わんの?」  まるで自分が無神経な人間と決めつける言い草に、かちんとくる。 「少なくとも、君をあの別宅に呼ぶようなことはしないよ」 「アホか。そんなことをおまえが気にすることない」 「気にするよ! 当たり前だろ」  狭い車内で急に言葉を荒げたせいか、龍崎は黙った。当然、柴田にも聞こえているだろうが、そんなことはどうでもよかった。 「だいたい、相手の女性の気持ちになってみなよ。恋人がよそでセックスしてるなんて……ましてや、男だよ?」 「会ったこともねぇのに、なんでおまえが、俺の女の気持ちがわかるんだよ」 「別に君の恋人が特別に寛大なわけじゃないでしょう? 今までもそうだよ。どうして言ってくれなかったんだ」 「誰とヤルかは、俺が決める。なんでおまえに文句言われないといけないの」 「文句とか、そうじゃなくてさ。君は、ノーマルなんだし、いつか恋人と結婚して家庭を持つんだろ。そんなんじゃダメじゃないか」 「俺に説教とか、一億年早ぇえよ。坊っちゃん」 「僕は君よりは常識があるつもりだよ!」 「ったく。何、イライラしてんだよ。ねー、柴田さん、こいつ生理なの?」  茶化したような態度に、一気に頭へ血が上る。 「いい加減にして! そもそも僕は別に君じゃなくったっていい!」  その言葉に、龍崎の反論はなかった。 「……確かに、今までたくさん助けてもらった。でも、君が何かを犠牲にしてまで、僕を気にかけてくれなくていい」  龍崎は黙ったまま、手元の煙草をもみ消した。そのまま、車内は沈黙した。 「柴田さん、いいよ。気ィ使わなくて」  龍崎の言葉に、あれから車はずっと同じ場所をぐるぐると走り続けていたことに気づいた。 「すみません」  きっと、龍崎の家に近付いていたけれど、そのまま周囲を走ってくれていたのだろう。そんなことに、寅山はまったく気づいていなかった。 「おまえな、俺はいいけど、柴田さんまで困らすな」 「は? 柴田は僕の運転手だよ」 「今日のおまえには何言っても無駄だな。頭冷やせ」 「なんだよ、まるで僕がおかしいみたいな言い方を……」 「おまえ、今の生活、いつまで続ける気?」  今の生活と言われ、すぐに別宅のことが浮かんだ。 「俺に将来のこと言えるほど、おまえ自身は考えてるわけ?」 「僕は……」 「先のこと考えてねぇのは、お互い様だろ」 「僕はともかく、君は……!」 「おまえはもう少し落ち着いて、せめて柴田さんを不安にすんな」 「どうして、柴田の話になるんだよ」 「龍崎様、着きました」  その龍崎の言葉を遮るように車は、龍崎の住むマンションの前に着いた。 「じゃあな」 「慎也、待って」  とっさに、降りようとする龍崎の袖を掴んだ。 「なに」 「お願いだよ。僕のことは本当にいいから、君は君の幸せを掴んでくれ」 「おまえに心配されてもな」 「僕も気になっている人がいる、から」  押し出されるように出てしまった相手は、当然、あのいけ好かない男のことだ。 「だから……」 「わかったよ。そいつには、裸で外に放置されないようにな」  それだけ吐き捨てると、龍崎は寅山の腕を振り切り、車を降りて行く。その背中はどんどん小さくなって、エントランスの向こうに消え、その間こちらを一度も振り返ることはなかった。 「扉、閉めますよ」  龍崎の後ろ姿をぼんやりと見ていたが、柴田が開いたままのドアを閉めにきたので、黙って、シートに座り直す。柴田が運転席に戻り、車は静かに走り出した。  自分と龍崎の歩む道は違うのだということを、再認識した夜だった。

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