9 / 28

08:甘い蛇の罠

*** 「寅山社長、こちらです」  柴田の車から降りると、道の向かい側にある重厚な扉の前で手を降る篠原の姿が見えた。その姿に、手をあげて応えてから、柴田に話しかける。 「今日は二次会も用意してくれているそうだから、また追って連絡する」 「わかりました」  走り去っていく柴田の車を横目に、寅山は篠原のもとに駆け寄った。 「待たせたかな?」 「いえ、俺も蛇原課長も、ちょうど着いたところですから。どうぞ」  篠原が扉を開けてくれて、そのまま店内に入る。 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました、寅山様」 「ありがとう」  都内の繁華街から少し離れた場所にある、この『飛苑』は完全個室の高級焼肉店で、噂によると紹介でしか、来店することが許されず、一般人には 敷居が高い。主に政治家の会合や接待に使われることで有名だ。出される料理も取り扱う肉の品質も一流だと聞いていて、機会があれば、寅山も、一度足を運んでみたい店ではあった。 「ご案内致します」  焼肉店の従業員とは思えない黒服に、個室へ案内される。後ろを歩いている篠原が、そっと寅山の耳元に口を寄せる。 「寅山社長、スーツもお似合いですね」 「ああ、篠原くんと着物以外で会うのは、はじめてだったっけ?」 「はい。スマートな体型だと思ってましたけど、こんなにかっこいい方と隣に並ぶの恥ずかしいな」 「ははは。口が上手だね。さすが営業マン」  今日は、篠原からあらかじめ着物ではなくスーツでお越しくださいと言われていた。匂いのつきやすい焼肉店ということと、このあとにつれていってくれるらしいお店ではドレスコードがあるのだという。和菓子の会社の上役という自覚から、普段からどこに行くにも着物ではあるが、こうしてあらかじめ指定されれば、スーツ姿も苦痛ではない。 「ていうか、俺、こんな高級なところ、キンチョーしちゃうんですけど」 「二度と来れないかもしれないから、社会勉強だと思うといいよ」 「それはそうなんですけど、肉の味もわかんなくなるかも」 「個室に入ってしまえば、リラックスすればいいよ」  旨い焼き肉が食べられるというのに、なぜか泣きそうになっている篠原をなだめた。本来ならこんな高級店には縁がないはずだが、これには事情がある。  実は、蛇原のデザインした寅山羊羮の新パッケージが大変好評らしく、雑誌やメディアにかなり大きく取り上げられ、龍崎コーポレートに大量のデザイン発注が来ているらしい。そのせいで、会社は今まで以上に忙しくなっていて、いわゆる特需なのだという。そして、これに気をよくした龍崎が、とっておきの人脈を使い、この店を予約したそうだ。 「篠原くんも忙しいんじゃないの?」 「ええ、おかげさまで。でも、俺よりも蛇原さんのほうが大変ですよ。一躍有名人ですからね」  確かに、もともとこの特需に火をつけたのはデザイナーの蛇原だ。素人の寅山から見ても蛇原のデザインは印象に残る、よいデザインだと認識できた。そして、寅山羊羮の社内でも、評判は上々だ。しかし、これほどの実力があれば、もっと以前から腕を買われていてもいいのに、なぜ蛇原の才能は急に開花したのだろう。黒川が課長だった頃から考えると、その影に隠れていたのだろうか。  そして、そんな蛇原とは心配していたような特別な接点はない。寅山のことを気にしているというそぶりをしておきながら、特に何か仕掛けてくるわけでもない。  龍崎に恋人がいるという話を聞いたあの日、話がこじれて別れ際に「自分にも気になっている人がいるから」と、口走ってしまった。今思えば、本当に勢いだった。冷静になってみて、結局のところ、自分は一人ではないと龍崎にアピールしたかった、心配はしなくてもよいと強調したいだけだった。別に、蛇原とは特別な関係でもないし、それを望んでいるわけでもないのに、あのときの自分はつくづく冷静さを欠いていたと思う。 「どうぞ」  館内エレベータを使用し、静かな店内を歩き、ようやく個室に着く。黒服の男性が、その扉を開ける。  個室の内装は黒と赤を基調としたシックな色使いの壁紙がほどこされ、黒塗りに金の装飾が控えめに施された高級なダイニングテーブルの中心に七輪が埋められており、そういえば焼肉店だったのだと気づかされる。事前に確認してきた公式ホームページによると和室も完備しているらしいので、どんな接待にも対応できるのだろう。 「寅山社長、お疲れ様です」  部屋の奥では、すでに着席していた蛇原が立ち上がり、寅山に向かって会釈した。テーブルには和紙で出来たランチマットが、三名分用意されていた。やはり、三名なのか、と少しばかり心が軋む。  あれから、龍崎とは会えていない。忙しいのは十分承知であるが、当然あんな言い合いをしてから、寅山から連絡しにくい。こちらに非があったことは認めているし、龍崎の性格上、気にも留めていないだろうこともわかる。それでも、わざわざ、龍崎に謝罪する気にもなれず、今に至るのだ。  正直、寅山と龍崎は喧嘩をしたことがない。もともと寅山は感情をあらげることもないし、龍崎の言い分はそのときは納得いかなくても後から間違っていなかったのだとわかる。  むしろ、龍崎は黒川と言い争うことが多く、寅山はその間に立って、二人の意見を聞いて仲裁にまわることが多い。長い付き合いのなかで、龍崎の扱いはきっと誰より自分がわかっている。だから今も、こうして連絡をとらない期間が続いても、顔を合わせればもとに戻れる。それも十分理解しているのだ。 「すみませんね、うちの龍崎の都合がつかなくて」 「いや、そういう意味では」  落胆したそぶりを見せたつもりはないが、そう映ってしまったのかもしれない。慌てて、否定しつつ、案内された席に着席する。 「私も、お二人のやりとりを拝見したかったですよ。寅山社長といるときの社長は、別人ですからね」 「そうですか? 気を許してくれてるようには見えないけどな」 「うらやましいですよ。私も社長とフランクな関係になりたいです」  そうなのだろうか。寅山からすれば、龍崎は誰にでもフランクな関係に見える。むしろ、馴れ馴れしいくらいだ。 「さ、美味しい焼肉がどんどん来ますよ! 寅山社長も楽しんでくださいね」  乾杯のビールが運ばれ、三人は祝杯をあげた。  ひとまず新デザインのパッケージが無事にリリースされたこと、そして龍崎コーポレートが特需を迎えていること、どれも喜ばしいことばかりで、寅山は素直にこの時間を楽しもうと思えたのだ。  食事会は、おおいに盛り上がった。料理は申し分ないほど美味しかったし、それに加えて、篠原と蛇原の掛け合いが楽しかったせいもあるだろう。  今では、寅山は二人のことを信頼しているし、心も許しているつもりだ。プロジェクトは多忙を極めることもあったが、二人は真摯に取り組んでくれて、その真面目な仕事ぶりに好感が持てた。  蛇原も、過去に関係があった相手だとわかってから、最初はどうなることかと思ったが、そんな過去などなかったかのように、仕事に徹してくれて、能力的にも優秀なデザイナーであることもわかった。篠原もまた、営業マンとして日が浅いとは思えないほど、充分な配慮ができる気持ちのいい男であった。 担当が変わると聞いて最初は不安だったが、今ではこの二人に任せてよかったと思えるから、ふしぎだ。結局、龍崎の言うことは間違っていなかったのだと、悔しいが認めざるを得ない。 「そろそろお開きの時間ですかね」  蛇原が腕の時計の時刻を確かめる。 「では、あとはよろしくお願いしますね、蛇原課長」 「そうだな。寅山社長を楽しませられるようにがんばるよ」  篠原と蛇原は顔を見合わせて笑った。 「このあとは、篠原くんはこないのかい?」 「はい。課長に空気読めって言われて」 「私はもう少しやんわりと言ったつもりだが?」 「蛇原さんの選んだお店ですか? 楽しみですね」  あんなに蛇原と二人になるのを恐れていたのが、嘘のようだ。今は、いったいどんなお店に連れてってくれるのだろうとわくわくと胸を踊らせている自分がいる。きっと、自分にとってマイナスな場所につれていくことはないという信頼が芽生えているくらいだ。 「これからは甘美な大人の時間ですよ」  蛇原は、細い目元をますます細くさせて、寅山に向かって微笑んだ。 ***  篠原と別れ、蛇原とタクシーに乗り込む。運転手に指定した場所は、そこからそれほど離れていない繁華街の住所だったが、そこに何があるかは、告げられていない。  寅山は車窓越しに、駅に向かう人、次の店で向かう人などの行き交う人々を見つめていた。時間は21時半を過ぎたところで、金曜日の今日なら、街はまだ眠らない時間でもある。 「それにしても篠原くんは、僕たちのことを誤解したままじゃないのか?」  隣の蛇原に声をかける。 「それなら、誤解じゃなくなればいいんじゃないですか?」 「何を言って……」 「私はもとから貴方に会いたかったので、ある意味、間違っていないでしょう」 「それは、その」  寅山は、再会したあの日の蛇原の言葉を思い出し、言葉に詰まった。 『私は貴方のことをとても気に入っていましたからね。貴方以上の人にはいまだに出会えていない』  言葉だけを素直に受け取れば、とても光栄なことだと思う。けれど、寅山と蛇原の間にあるのは、はっきり言って肉体関係のみで、気持ちは何一つ通わせていない。いくら仕事ができる相手だとわかっても、完全に心を許すことができないのは、忌々しい記憶が邪魔をするからだ。 「だって、こうして二人きりになるなんて最初なら考えられないでしょう?」 「それは君の自業自得じゃないか」 「ははは。貴方の気を引きたかったと解釈してください」  あれから問い詰めてはいないけれど、再会したその日に卑猥な画像を匿名で送りつけてきたのも、警戒心を強める要因になったのだ。 「ああ、それにしても待ち遠しかったなぁ。貴方とこの時間を過ごすための準備が本当に長かった」 「準備って、どういうことだ?」 「まず私は、貴方にビジネスのパートナーとして認めてもらう必要がありました」  蛇原の言っている意味がわからない。 「そもそも私は仕事に対して、ホドホドでいいと思っています。デザイナーで食えなくても別にいい。けれど、取引先の社長が貴方とわかって、私は本気を出さざるを得なくなりました」 「まさか、君は……」 「そうですよ。貴方から信頼を得て、こうして二人で出かけるようになるために、私は頑張ったのです」  蛇原のデザイナーとしての実力がここにきて露呈したのは、寅山羊羹との契約を結ぶためだったというのか。 「龍崎はそのことを知っているのか?」 「あの人は食えない人ですからね。今は様子をみているんだと思います」 「でも、君と僕の関係のことは知らないだろう?」 「もちろん、私からは言ってませんよ。他にも、社長とはね、いろいろあるんです。私は」  その意味ありげな言い方は気になったが、同じ会社ということで、寅山の知らないところで何かあるのかもしれない。寅山が心配したところで、龍崎は他人の力など借りずに一人で決できる人間なのだから、徒労に終わるのは間違いない。それに龍崎も、蛇原の腹の内がわからないと、言っていた。そんな風に、お互いを探り合い、牽制し合う間柄なのだろう。 「心配しなくても、私は貴方の嫌がることをしません」 「その言葉には、もう騙されない」 「嫌がることよりも、悦ばせたほうが多かったはずですが?」  蛇原が耳元で吐息混じりに囁いたので、寅山の体はびくり、と震えた。強がったところで、蛇原の言うとおり、この男には、感じさせられたり、悦ばせられたりした。当然、体はちゃんと覚えている。だから、体の奥では蛇原に押し倒され、犯されることに淡い期待を抱いているのかもしれないと思うと、つくづく自分の貪欲さに呆れてしまう。 「さあ、着きましたよ」  タクシーは高級タワーマンションの前で停まった。それほど距離は走っていないはずだが、ここがどこなのか、まったくわからない。車を降りて周囲を見渡す寅山の腰を抱いて、蛇原がエントランスへ促す。 「今夜は、ショータイムです。楽しみましょう?」

ともだちにシェアしよう!