聞きなれた声と共に、喉を締め付けていた手が緩み、一気に空気が流れ込んでくる。 　衝動的に咳き込むと、勢いで口に詰められていた靴下を吐き出す。涙と唾液をだらしなく口元から垂れ流し、ながら咳き込み続けるが、頭がくらくらしている。 「助けにくるのが、遅いんじゃないですか？」 「別に助けるつもりなんかねぇよ。お楽しみの最中だろ」 「慎……也？」 「アホが。本当におまえは、いっぺん死なないと懲りないのか」 　まだ、その姿は確認できないが、その声は昔から知っている声だった。今、友人が目の前で殺されかけたというのに悠長で、焦る素振りもないのだから、本当に肝の座った男だ。 　すると、突然、ばさっと上から柔らかな布が降って来た。薄目を開けるときれいな朱色が見えた。どうやらそれは、クローゼットに入っていた赤襦袢らしい。 「酷いじゃないですか、社長。私はまだ終わってませんよ」 　蛇原がぼやきながら、かちゃかちゃとベルトを締めている音がした。 「そりゃ悪かったな。俺だって邪魔するつもりはなかったよ。でもな、おまえは加減がわかってるかもしれねぇが、ひ弱なこいつが耐えられるかの保証はないだろーが。まだこいつに死なれちゃ困るんだよ」 「いつ、から……」 　淡々とした二人のやりとりに、寅山がかろうじて口に出せたのはそれだけだった。 「俺が部屋に入ってきたときはヤッてたぜ。まぁ別に普通にセックスしてるだけなら、そのまま帰ろうと思ったけど、おまえのうるせえ声が聞こえなかったからおかしいと思ってな」 　その言葉に、かぁっと顏が熱くなる。確かに、自分は声が大きいほうであると龍崎は知っているが、改めて言われると恥ずかしい。それに声が出せる状況ではなく、呻き声だけだったので、扉の向こうで何かがおかしいと気づいたのだろう。 「心配だったなら素直にそうおっしゃればいいのに」 「俺じゃねーよ。こいつの運転手が心配して俺に知らせてきたんだよ。それに、なんで俺がてめえらがセックスしてるところに割り込まなきゃなんねーんだよ」 「ふふふ、そういう無神経なところが好きですよ、社長」 　ようやく、寅山が目を開けると、衣服の乱れを直した蛇原はベッドの横に置いてある拘束具のついた椅子に足を組んで腰かけていた。そしてベッドの傍にはスーツ姿の龍崎が立っていた。 「なぁ、蛇原。それだけど、もうこいつ巻き込むのはやめてくれねぇか」 　龍崎が指を差したのは寅山だった。 「巻き込む、って……どういうこと？」 　ようやく体が落ち着いてきたので、寅山は体を起こし、肌襦袢に袖を通した。そもそも、この状況は蛇原と寅山の問題であって、龍崎にいったいなんの関係があるというのだ。 「おまえの目的は俺なんだろ、蛇原」 　耳を疑った。目的とは……？ 「やだなぁ、わかっててここまで泳がせたんですか。悪趣味な人だ」 「おめえに言われたくねぇよ、ド変態が」 「いえいえ、変態なら、寅山社長には敵いませんよ」 「それはそうだが」 「ちょ、ちょっと待って」 　状況が全く飲み込めない。目的は俺……と龍崎は言った。すなわち、蛇原は龍崎のことを？ 「寅山社長と黒川課長が貴方の弱点だと思っていたのに、黒川課長は男を追いかけてイギリスに行くわ、篠原とデキてるわ、それならと思って寅山喜之助を調べていったら、私が過去に関係があった相手だし、まったく本当に計算外のことばかりですよ」 「俺は、そう簡単に思い通りにならねぇんだよ」 「最大の誤算は、貴方と寅山社長の間に、恋愛感情がなかったこと、ですがね」 「ねぇよ、そんなもん」 「そういうところが魅力的です。私は貴方を膝まづかせて啼かせたい。愛してますよ、社長」 「え、蛇原くん……君はその、もしかして？」 　蛇原は、呆けている寅山を見て声をあげて笑った。 「寅山社長、気づいてなかったんですか？　私の狙いは最初から社長ですよ。この男を陥落させたいほどに、愛しているんです」 　そう言われれて、ようやくすべての辻褄が合った。自分は、ただ龍崎をおびき寄せる餌として利用されただけだったのだ。 「慎也は、いつから気づいて……」 「結構、前だな。確信に変わったのは、寅山羊羹のデザイナーを志望してきたあたりからだ。手を抜いてばかりのこいつがやけにこだわるから、おかしいと思ったが、予想通りだったってわけだ」 「ええ、おっしゃる通り、副業が疎かになるくらい、頑張りましたよ？」 「まぁ、柄でもなく告白でもしてくれりゃ、優しく断ろうと思ってたけどな。いくらなんでもやりすぎだろ」 「いやあ、ちゃんと生死の境界線は心得てるつもりなんですがね。この部屋に呼ばれた時点で助けに来るかと思ったのに、全然いらっしゃらないから、つい私も楽しんでしまいました」 　まだ思考が追いつかない。 「こんな無茶をするってことは、過去にこいつを外で捨てた男もおまえか」 「さすが、ご名答」 　それはさすがに知らなかったらしいが、今この瞬間、自分と蛇原の関係は龍崎に知られてしまったことになる。 「つーか、おまえ同じ男に何度も殺されかけるなよ」 「社長、人聞きが悪い。こう見えて、私は今まで、一度も人を殺したことはないですからね？」 　あはは、と高らかに笑う蛇原に寅山は笑えなかった。 「あれー、もしかして寅山社長。私のこと好きになっちゃってました？」 　言葉少なげな寅山に、蛇原はにやにや笑いながら近寄って頬に触れようとする。 「ふ、ふざけるな！」 「貴方の体が最高に魅力的なのは間違いありません。あの場所に連れて行きたかったのも事実ですよ」 「龍崎が僕を助けにくると……思ったんだろ……」 「それはまあ、あわよくば？ あ、言っておきますけど、私が忠告したのに会場の飲み物に手をつけたのは貴方ですからね」 「なんだよ、おまえ、またやらかしたのか」 「ふ、不可抗力だよ！」 　赤の仮面をつけている人間をそっち側の人間と認定し、媚薬入りの飲み物を渡すのは、蛇原には関係なくサービスとして、もとから存在していたのだろう。もちろん、寅山を陥れるためのものではないのは、わかる。それを自分は、体を重ねる、都合の良い口実ができたと、ここまで蛇原を連れ込んだのだ。下心があったのはむしろ自分のほうだ。 「私はね、もともと貴方みたいな甘ったれたボンボンは趣味じゃないんですよ」 　そう言われても、言い返す言葉は出ない。そのとおりだ。自分は甘い。 「その気にさせて申し訳ありませんが、どうせなら手に入るのが難しい男を求めたいじゃないですか」 「絶対、おまえの思い通りにはならないから安心しろ」 龍崎が口を挟む。 「ふふふ。そういうところがまたそそられますね。あ、寅山社長。時々、こうして遊んであげるくらいはしてあげますよ。あくまで私のやり方で楽しませてもらいますけどね。それにしてもあんな酷いことをした私を、まさか好きになってくれたとは……」 「もう、そのへんでいいだろ」 　何も言わない寅山を見かねたのか、龍崎が蛇原をたしなめる。 「おや、貴方のような無慈悲な人間が、まさかお友達のことが、かわいそうになりましたか？　友情ですねぇ。ところで私のペットになりませんか、社長」 「嫌だっつってんだろ。しつけぇな」 「私は諦めませんよ？　このまま会社に残していいんですか？」 「てめぇはいけ好かねえが、デザイナーとしての腕は認めてる。こいつの会社のことも、引き続き頼みたいしな」 「ええ、社長の言いつけなら喜んでやらせていただきますとも」 　二人の会話に、寅山は何も言えずに黙るしかなかった。 　蛇原に自分は僅かな期待していた。肉体だけじゃない繋がりがあるような気がしていた。そんな自分は、あまりにも浅はかだったと思い知らされる。 　そしてすべてを悟っていた男、龍崎。 ――自分は、本当に龍崎の手中にいる。 　そう、思い知らされた夜だった。