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12:ひとときの甘さ
冷たいシャワーを頭から浴びる。
それは、うぬぼれた自分への戒めのようなもので、いっそ、このまま心も体も冷えて、凍りついてしまえばいいのに、と思う。
あれから、蛇原は、靴下の片方はお詫びにさしあげます、と高笑いしながら、帰っていった。
まだ現実を受け入れきれていない寅山に、龍崎は「とりあえず、てめえは風呂に入ってこい」と浴室に突っ込まれた。精液やら汗やらで、どろどろに汚れていたので無理もない。
冷え切った体を今度は熱いシャワーで温めると、体だけでなく、頭の中も機能してきて、冷静を取り戻してくる。いつものボディソープの香りに包まれると、体の汚れと一緒に、自分自身が清められる気がするが、そうじゃない。もう洗ったくらいでは、綺麗にならないくらいに、身も心も汚れている。
つくづく、自分は、とんだピエロだったんだ、と実感する。
結局のところ、あんなに心が乱されたのは、自分の思い過ごしと、思い上がりから来るもので、自分の周囲を取り巻く環境には、なんの変化もなかったのだ。
自分の価値は、どんなプレイにも耐えられて、なんの配慮もしなくてもいい強靭な孔を持つ体で、それは気兼ねせず排泄できる便器のようなものである。便器に感情なんて存在しないし、どんな気持ちなのかを推し量る必要もない。無機物であるところの自分にこそ、価値があるのだ。
あのオークションの会場にいた、若き男子たちは自分と違い、愛玩動物として寵愛を受ける。同じような扱いにみえて、全然違うのだ。
自分が人生でいちばん必要とされ、大事にされたのは、監禁されたあのときだけだ。まだ青い身体を、代わる代わる見知らぬ男たちに弄ばれたが、その引き換えに自分では得られない、快感を与えてもらった。本当に幸せな毎日だった。あの快楽を知ってしまったばっかりに、それが忘れられなくて今では自分で金を払って補うしかない。
こんなことを、いったいいつまで続けるのだろう。我慢できない、この節操のない体と一生付き合っていかないといけないのだろうか。
野外に放置され、今日は首を絞められ堕ちかけた。そんな危険な目に遭っても、二度とセックスしたくないだなんて、思わない。
つくづく、自分の欲望の果てしなさに呆れる。
晴れない気持ちのまま、浴室を出る。もう今日はこのまま、ここで泊まっていこう。羽織っていた肌襦袢に再び腕を通し、寝室へ戻った。話し声がかすかに聞こえ、龍崎が誰かと電話をしているのだとわかる。
「はい……そうですね。そうします。心配かけてすみません。はい、おやすみなさい」
ちょうど電話は切るところだったらしい。ジャケットを脱いで、黒とグレーの縦ストライプのシャツにスラックス姿で窓際に、スマホ片手に立っている龍崎は、かっこよくて見惚れてしまいそうになる。時間はもう24時を過ぎている。こんな遅くまで仕事していたのだろうか。そして、仕事の最中に、柴田から連絡を受けて、ここに駆けつけてくれたのだろうか。
「落ち着いたか?」
寅山に気づいた龍崎が優しく問いかけてきて、寅山は頷いた。
「今の電話……柴田?」
「そう。ホント、柴田さんはおまえに甘いよな。無事でよかった、って電話口で泣いてたぜ」
「明日……謝っとく」
「そうしとけ。で、おまえはここに泊まってくんだろ」
龍崎はそう言いながら、寅山の隣を通り過ぎようとした。
「待って」
寅山は俯いたまま、とっさに龍崎の袖を掴んでいた。
「何?」
「………て?」
「聞こえねぇよ」
「隣で……寝て」
「はあ? ガキか、てめえは」
「ど、どうせ僕は、甘ったれたボンボンだよ!」
龍崎のことだから、バカにするのは予想できたが、このまま一人になるのがなんだか怖かった。もし、一人で置いていかれたら、自己嫌悪に押しつぶされ、舌でも噛んで、死んでしまうんじゃないだろうかと胸騒ぎがして、不安になった。
自分はこんなに弱い人間だっただろうか。
「しゃーねぇな。死にかけたくらいだし」
ぽんと頭を叩かれ、龍崎に肩を抱かれた。こんな風に優しく引き寄せられたことなんて、今まであっただろうか。
「先、布団入ってな」
優しい声音でそう囁かれ、寅山は寝室の中央に鎮座するベッドの布団をめくり、中にはいる。ひやりとしたシーツの冷たさを肌に感じる。目の前では龍崎がスラックスとシャツを脱いでいた。
「何か、着る?」
「いい。アンダーシャツと下着で寝る」
半袖のアンダーシャツとボクサーパンツ姿の龍崎が、隣に滑り込んでくる。龍崎の分を空けていたのに、そのまま寅山の体を引き寄せてきた。
「ちょ……っ」
「あー、ほっせえな、この抱き枕」
「うるさいよ。前よりは少し太ったんだから!」
「悪かった」
抱き寄せられたまま、急に耳元で謝られる。
「なんのこと?」
「おまえを騙すようなことして悪かった。しかもあいつがどんな行動を起こすか、ちゃんと読めてなくてさ。巻き込んでごめんな」
「慎也が……謝ることじゃないよ」
そもそも、ここに蛇原を連れ込んだのは自分だ。それなのにこんな風に優しく抱き寄せられて謝られたら、余計にみじめなだけだ。いちいちデキる男で困る。本当にかっこよくて、困る。
「もっと早く、部屋に入ったほうがよかったか?」
「……ちょうどよかったから平気」
それまでは喘ぎまくっていたなんて、とても言えない。
「そうか」
再び、龍崎にぎゅっと抱き寄せられる。
なんだろう、この感じ。きゅっと胸が締め付けられて体が熱い。性欲が滾るのとは違う、切なくて苦しくて、それなのに心地いい。恋人がいたら、こんな風に抱きしめて眠る夜は当たり前なのだろうか。
思えば、今までの人生で恋人がいたことなんてなかった。高校三年のとき、親の差し金と思われる、家庭教師の女性相手に初体験は奪われた。寝てていいから、と言われ女性の体の中に自分の性器が入っていく感覚を味わった。コンドームごしだけど女性の中は気持ちいいと思った。
でも、それでもまたしたいとは思わなかった。自分は入れる側ではなく、入れられる側なのだと思い知って、そのあと自分の指で慰めたことまで、ふと思い出した。
「なあ、マジで蛇原のこと、ちょっとその気になったのか?」
「そ、そんなわけないでしょ」
「趣味悪いな、おまえ」
「違うって……」
「気になってる人がいるって、言ってなかったか?」
「それは、もう……忘れてほしい」
つくづく、自分は浅はかな人間だと、思い出してしまうからやめてほしい。
愛するという基本的な感情を知る前に、性の快楽を知ってしまったせいか、愛とか、恋とか、そんな甘酸っぱい気持ちを味わうことなく今に至る。好きな人ができたのではなく、気になる人ができた。せいぜいそれが精いっぱいの感情だ。
「おまえは、俺でも好きになっとけ」
「な、何言ってんの?」
あまりにも予想しない言葉に、思わず、体をよじって龍崎の顏をのぞきみる。表情はいつものどおりで、特にふざけているわけでもなく、冗談でもないようだ。
「俺以上の男はいないから、当面安心だろ」
「自分でホモじゃないって言ってたくせに! それに……付き合ってる人、彼女とか、いるんでしょ」
「好きなやつなんていねぇよ」
「はぁ? 好きでもないのに付き合ってるってこと?」
「付き合うとか、てめえ学生かよ」
「恋人ってそういうことじゃないの?」
自分の言っていることが間違っているのか、龍崎はめんどくさそうな顏をした。
「何? 言ってよ。僕がおかしいみたいじゃない」
「まぁ、おまえをほっとけないのは事実だ」
「何それ」
今度は、腕の中に閉じ込めるように抱きしめられる。温かくて優しくて、ずっとここにくるまれていたいほど気持ちいい。きっとお互いが好きだったとしたら、もっともっと幸せに違いない。好き、なんて気持ちはよくわからないけれど、こうして龍崎に包まれる感覚は悪くないと思う。
「じゃ、慎也より、もっといい男が現れるまでは、慎也でいいや」
「俺よりいい男なんて、ハードル高いからやめとけ」
「そういうこと、よく自分で言えるよね」
「おまえ、今まで、俺よりかっこよくてデキる男に出会ったことあるか?」
しばし、考えてみる。
「……ないけど」
「じゃ、間違ってないだろうが」
「それもそうか」
なんだか、うまく言いくるめられた気がするが、まぁ今日のところはこれでいいか、と諦める。
「おまえが俺を好きなうちは、俺がおまえを守ってやるよ」
「うわ、偉そうに。もういい大人だよ、僕は」
「今日、死にかけてたじゃねーかよ」
「も、もうないよ!」
人生で二回目。しかも同じ男に殺されかけている。もう蛇原と、二人きりで会うのをやめよう。今度会っても、きっとまた懲りない。自分で抑制できないのだから、もうやめたほうがいい。
あのセックスは惜しいけれど、と本音を言ったら、きっと龍崎に叱られるから黙っておく。
「なぁ」
「何?」
ふと、顔をあげた隙にキスをされた。
「や、やめてよ、普通のときに、こういうことするの!」
目を見開いて、抗議する。
「うるせーな。いつも盛ってるときしか、キスしてこねーだろ、おまえ」
「盛ってるって、まるで人を動物みたいに言うんだね、君は!」
「あーうるせー、もう寝る」
「ぶふっ」
胸にぎゅ、っと顏を引き寄せられ、もう反論の余地は与えられない。渋々、胸の中でおとなしくしていると、自分もとろとろと眠りに誘われた。
すー、と寝息が聞こえて、ゆっくり顏をあげると、龍崎はもう眠っていた。
――そういえば寝顔なんて見たの、初めてかも。
龍崎は、ここに泊まっていくこともなく、寝ているところを見たことがなかった。学生の頃から、ショートスリーパーだと言っていたこともあり、修学旅行でも龍崎だけは朝方まで起きていた気がする。こんな風に、落ちるように寝てしまうだなんて、きっと忙しくて疲れていたのだと思う。
心配かけて申し訳なかったと、ちょっとだけ思う。そして、ちょっとドキドキしたなんて、絶対に言うつもりはないけれど。
『おまえは、俺でも好きになっとけ』
その言葉はきっと、いつもの龍崎の気まぐれだと思う。でも龍崎を好きになっても、きっとつらいだけのような気がする。よくわからないけど、龍崎は誰かのものになる人間ではないし、自分一人が独占してもいい人間ではない。それに、自分たちは、もう好きだ嫌いだと言える関係でもない。
だったら、自分たちの関係はなんだろうか。お互いのことは。だいたいわかっている、それは家族に近いのかもしれない。
きっとそうなのだ。龍崎にとって、自分は血の繋がっていなくとも、ほっておけない家族のようなものなのだ。
龍崎よりも、いい相手はきっと見つからないだろうけど、自分を愛してくれる人に出会えるだろうか。
龍崎よりも、自分のことを守ってくれる人がこの世にいるだろうか。
そんな自問自答を繰り返すうちに、寅山は、いつしか眠りに落ちていた。
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