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13:忍び寄る不穏な計画

「今日は新製品会議でしたよね」 「そうだね、まぁ、時間通りに終わるとは思うけど」 「その後は、どちらに向かいますか?」 「知らないよ。慎也は駅前で待ってろってことしか、言わないんだもん」 「了解しました」  受話器から聞こえる柴田の声は、明らかに笑みを含んでいた。  蛇原と寅山、そして龍崎が対峙したあの日から、龍崎はこれまで以上に寅山に構うようになった。もちろん、こんな雑な待ち合わせになるくらい龍崎は忙しく、少しでも時間を作って寅山に会おうとしてくれているのはわかる。別に、こちらから頼んだわけじゃないのにと思うが、どうやら龍崎には考えがあるらしい。  なぜなら、龍崎にしては珍しいことを寅山に言うようになったからだ。 「おまえは、しばらく男を買うな」 「……なんで?」  今まで、龍崎がこちらの行動を抑制するような発言をしたことはなかったので、単純に驚いた。あの『俺でも好きになっておけ』という言葉通り、心も体も束縛しようとしているのだろうかとよぎったが、残念ながらそうではなかった。 「おまえの行動を見張ってるやつがいるみたいだから、ちょっとおとなしくしてろってこと」 「え、僕の?」 「そういうこと。しばらくはおまえの相手は、俺がしてやるよ。まぁ、俺一人じゃ物足りないでしょうけど?」  その言い方に、寅山は、ぎゅっと唇を噛む。  いろんなことがすでに龍崎にバレているらしい。風俗の話はしていなかったはずだから、どうせ柴田がバラしたんだろう。今さら、隠すことなど何もないが、性癖まで知られているのはなんだか気恥ずかしい。  しかし、誰かに見張られているというのはどういうことなのかと問いたかったが、どうせ教えてくれないと諦めている。いつも龍崎のネタばらしは、いろいろと片付いた後だ。  というわけで、ほぼ毎日に近い頻度で龍崎と一緒に食事をしているが、その後はおとなしく自宅に帰っている。どうやら、いつでも相手してやる、と言われてしまうと、自分はその気にはならないらしい。最近は、龍崎どころか、誰とも体の関係はない。今までも、龍崎が寅山をベッドに誘うようなことは一度もなかった。すなわち、寅山が言いださなければ、自分たちの間に、何も起きないのだ。  自分は性に貪欲なあさましい体ではあるけれど、このままなら平穏な日々が過ごせるのではないかと思う。もちろん、それで過去が帳消しにならないことはわかっているけれど。 「あーあ! 君たちは一体何をたくらんでいるんだろうねー?」  わざと大きめの声を出して、受話器の向こうの柴田を困らせる。 「龍崎様は、社長のことを心配していらっしゃるのですよ」 「だからって、いつも君たちは、僕をのけものにするよね」 「それは……」  わかりやすく不満をぶつけると、柴田は途端に申し訳なさそうな声音になる。 「どうせ慎也に口止めされてるんだろ、わかってるよ」 「申し訳ありません。別宅で何者かが見張っているようなので、くれぐれも目立つ行動はお控えください」 「はいはい。わかったよ」  心配性な運転手の電話を切る。いつもの柴田なら、ある程度は自由にさせてくれるので、今回はよほど警戒していると見える。  寅山は、社長室の窓から外を見下ろした。一階の店舗から、羊羮を求めて年配の女性客が数人談笑しながら出てくるのが見える。いつもと変わらない風景だ。  柴田には不服そうな返事をしたが、監視されているという状況に思い当たることがないわけではなかった。来月、寅山羊羹では、株主総会が行われる。毎年この場で、会社の運営方針や役員の信任などが問われることになるが、老舗企業である寅山羊羹にとって、古くからの付き合いでもある株主達の意見は絶対だ。四月にリニューアルした龍崎コーポレートによるパッケージ案も、実はそろそろ包装紙を新しいものを試してみてはどうか、という去年の株主総会での意見が発端だった。今回、そのパッケージが好評で話題になったことから、周囲の寅山への評価は上々らしい。  それに年輩の株主たちにしてみれば、寅山の存在は、自分の孫のような存在に等しい。経済事情を熟知し、ビジネス志向だった二代目の寅山社長に比べると、息子の喜之助はまったくといっていいほどカラーが違う。  高校卒業後、すぐに羊羹職人の元で修行し、その後は社内の品質管理部に所属し、羊羹については社内でも右に出るものがいないほどの知識と技術を持つ。寅山が品質管理時代に出した新製品のいくつかは、今で寅山羊羮ブランドの中でヒット商品になっているくらいだ。そんな寅山は伝統の羊羮を守る人間として古くからの顧客や株主からかわいがられ、そんな彼らの強い後押しがあって三代目社長に就任したといっても過言ではないが、そもそも二代目社長である父親が病床に伏せることがなければ、三代目寅山喜之助社長はこんなに早く誕生することにはならなかった。  急遽、寅山が三代目社長に急遽就任したこともあり、もとから父親の経営手腕の流れを推していきたかった他の幹部は、今の状況を快く思っていない。寅山に対して、いじめとまでは言わないが、あからさまな嫌がらせは、たびたびある。社長である寅山へ報告なしに、他企業への資金援助を決めたり、外部からの天下り社員を受け入れるような人事配置を勝手に決めたりする。そういうとき、寅山は自分よりも年上の幹部達をやんわりと牽制しながらも、なんとか周囲の協力を得て乗り切ってきたのだ。  自分を良く思っていなくて、金まわりのいい人間は幹部に山ほどいる。そんな奴らが自分のことを監視していても、おかしくない。問題を起こせばたちまち、社長の座は失脚させられる。私生活の乱れも、当然、その要因になりうる。今までも細心の注意を払ってきたつもりだ。  元から、寅山は自分が社長になるとは思っていなかった。羊羹に関わらずに生きていくのは難しいと思っていたが、できることなら羊羹職人のままで人生を終わりたかった。ただの羊羮職人なら、こんなに妬まれることも、嫌がらせを受けることもなかったと思う。  本日予定されている新製品会議も突然、役員が招集された。もちろん、これまでの経緯も過程も寅山には知らされていない。神経を研ぎ澄まして、少しでも波風が立たないように気遣いながらの会議は、本当に疲れる。 「兄さん、貴方が社長になっていたら、きっと僕よりも、うまくやっていたでしょうね」  そう一人ごちて、寅山は社長室の黒革の椅子に座り、パソコンの画面に向かった。 ***  間もなく会議が始まろうとしていたが、大会議室へ向かう寅山の足どりは、決して軽くはなかった。本来新製品というのは、まずは企画書に始まり、そのコンセプトを会社に了承してもらった上で、品質管理部が長い時間をかけてテイスティングを重ね、万を持して役員向けに試食会を行い、ようやく販売に向けて会社全体が準備することができるのだ。  もともと寅山羊羮の場合、毎年季節にあわせた羊羮の味を検討する定例会はあっても、新製品を出す会議はめったに行われない。変わらぬ味を重んじる老舗和菓子メーカーに新しい風は必要ない。そんな考えを持つ株主が多いのが実情だ。  会議室の扉を開けると、円卓上のテーブル配置で、すでにほとんどの幹部は着席していて、談笑している。寅山の姿を見かけた、各部の役職者は立ち上がり頭を下げる。幹部たちは着席したままである。これも見慣れた光景だ。 「揃っているようなら、始めてください」  司会台に立っていた社員に声をかけると、若い男は寅山に向かって頭を下げた。スーツを着たこの若い男の顔に、寅山は見覚えがない。新製品会議なら、だいたい品質管理部の人間が会議をしきるのが通例だが、周囲を見渡しても、品質管理部の面々はいない。その時点で、寅山はこの会議が平穏無事に終われないことは予想できた。 「これから新製品会議を行います。お手元の資料をご覧ください」  机においてあったプレゼンテーション資料を手にとる。数枚ページをめくるが、見たことも聞いたこともない商品だ。画面は資料と同じものが投影されているが、どうやら内容は、子供向けの高級羊羮のようだった。さきほどの若い男は、品質管理部の社員らしいが、見たことない顔なので入ってまもない新人なのだろう。説明もおぼつかなく、人前で話し慣れていないのか、時々言い間違いを繰り返す。そして商品の成分の話になると、時折、言葉につまるそぶりを見せる。  ちらりと顔をあげて周囲を見渡すが、幹部は誰もこの件について意義を唱えない。寅山は品質管理部にいたときには、ひとつ言葉を間違えるごとに、野次が飛んだものだ。この幹部たちの態度で確信を得た。そして、一番の決め手は、製品に関する会議なのに、品質管理部の部長の姿がこの場にないことだ。 「失礼します」  突然、会議室の扉が開き、息を切らしながら入ってきたのは、その品質管理部の部長である増田だった。そして寅山の顔を見るなり、申し訳なさそうに頭を下げた。たったそれだけで寅山は、この茶番について理解できた。 「以上です。質問がなければ、これで終わります」 「ありがとう。あとは、私から補足説明させていただきます」  説明が終わったと同時に、間髪入れずに、幹部である常務が立ち上がった。寅山喜郎は、父親の弟、いわゆる自分の伯父にあたる人物で、常務取締役の座にいる一番の権力者だ。そして、自分が社長になったことを一番快く思っていない人物でもある。 「この羊羮の商品名である寅山ロイヤルにちなんで、都内のロイヤルホテルグループによる先行販売の契約を取り付けました。ターゲットである小学生を持つ家庭の宿泊プランにおいて、こちらの製品を試食していただく機会を頂き……」  延々と説明が続くが、どちらかといえば羊羮はオプションで、有名ホテルグループとの関係強化を主軸においた取引であることはビジネスに詳しくない寅山でもわかる。それにしても、ホテルと羊羮はどうにも結び付かない。おおよそ、ホテル側へ何かしらの資金援助をするかわりに、羊羮を絡ませただけに過ぎないのではないだろうか。 「というわけで、こちらの製品は来月からの販売を視野にいれており……」 「来月? まだ商品として承認されてもいないのに性急ではありませんか?」  寅山は思わず口を挟む。 「社長、この程度の製品なら株主総会の議題にあげることでもないでしょう」 「寅山羊羮の製品として販売するなら、小さいも大きいもないでしょう。僕から、この商品をプレゼンしてくれた彼に質問があるのですが、よろしいですか?」 「もう十分説明は聞いたでしょう。まさか、内容がお分かりいただけなかったのですか?」  常務は呆れる表情を隠そうともしない。 「ええ。申し訳ないですが、聞きたいことがあります。ようやく品質管理部の上司も会議に間に合ったようですし、さきほどの君、質問に答えてくれるかな」 「は、はい」  自分の役目が終わったと思っていたのか、さきほどの社員は驚き、慌てて司会台に戻る。もちろん、この男が、会議室に増田が入ってきたのを見て青ざめていたのを、寅山は見逃していない。 「君はこの製品を、子供向けの高級羊羮と言っていたね。ひとついくらで考えてる?」 「え、えっと……500円くらい、ですかね」 「500円? ターゲットは小学生じゃなかったかな」 「社長、まだ価格に関しては検討段階で」  寅山の質問を遮るように、慌てて常務が口をはさむ 「常務、来月には販売に踏み切る製品の小売価格が決まっていないというのはありえますか? 品質管理部はまず最初に顧客ターゲットと価格を最初に決めてから企画書を作ります。彼が品質管理部の人間なら、それを把握していないはずがありません」 「いや、彼は、その……」  常務が薄ら笑いを浮かべながら、彼を庇おうとしているが、取り繕う言葉が見つからないようで、目が宙を泳いでいる。 「君が遠足のとき、おやつはいくらまで、だったかな?」 「500円……くらいでした」 「僕もそれくらいだったよ。イマドキの子たちは、この羊羮一個だけを買ってくれるかな」 「買わないと思います」 「僕もそう思う。まず子供向けのわりには価格が高すぎる。素材にいいものを使っているのだから単価が高くなるのは当然だけれど」 「はい……」 「少し背伸びをして子供が一人で買おうと思う羊羮ならば、価格を一考する必要がある。」  寅山の意見に、その場の誰もが口を挟もうとはしない。 「これは僕の考えなのだけど、そもそも羊羮は親にその存在を教えてもらって食べるというのが一般的だ。君はどうだった?」 「うちも……そうでした」 「それは時代が変わっても、あまり変わらないと思うんだ。それなら僕たちはそのとき親が子供に教えてたくなるような美味しい羊羮を作り続けるべきだと思う。僕たちの扱っているものは、そのへんのポケット菓子とは違う。その誇りとプライドをもってつくった羊羮をたかがホテル相手の取引のためだけに引き合いに出すなんて、僕だけじゃなく寅山羊羮を愛するお客様たちに顔向けできないと僕は思う」 「社長、なにもそこまで」  たまらず常務がフォローに割り込んできた。 「常務、貴方ならご理解いただけるでしょう。彼の提案した商品はあまりにも稚拙だ。僕ならまだしも、幹部であるあなたたちに聞かせるレベルに達していない。これはあなたたちへの侮辱ではありませんか?」 「いや、それは……」 「増田部長」 「はい」  入口で小さくなっていた増田に声をかけると、返事をして立ち上がった。 「彼はまだ若い。これから、もっと寅山羊羮を理解してもらうように、よろしく指導を頼みます」 「かしこまりました」 「品質管理部の頭である増田部長の許可が得られるまでは、この商品については保留とします」  その寅山の言葉に、誰も意義を唱えるものはいなかった。あえて、常務の顏を見なかったが、苦虫を噛み潰したような表情が安易に想像できて、寅山は腹の中で、ほくそ笑んだ。 ***  会議が終わって社長室に戻り、ソファに腰かけたところで、ドアがノックされた。当然誰かはわかっている。 「どうぞ」 「増田です」  増田は深々と頭を下げ、部屋に入ってきた。 「部長、やめてください。だいたいの事情はわかっていますから」 「本当に申し訳ない。まさか自分の出張中にこんなことが起きるとは」 「どうぞ、座ってください」  増田を社長室へ招き入れる。やはりこの会議のことは、寅山同様、増田の耳には入っていなかった。当然だろう。増田が知っていれば、部下にこんなプレゼンを許可するはずがない。 もともと増田は、寅山にとって元上司であり、羊羮についても、製品開発においても、厳しく指導を受けた、師匠とも言える存在なのだ。 「いやあ、本当に驚きました」 「そもそも僕は、部長が監視していてあんな製品は世に出ることはないと思っていますよ」  これは最初から常務が仕組んだものだったのだ。そして気の毒なことに、あの社員は部長に内緒で、常務に半ば脅されて、あの場に立たされたのだろう。 「よほど僕が気にくわないんでしょうね」 「社長、大丈夫ですか?」  苦笑しながら自虐を吐けば、増田の顔が曇る。 「僕は大丈夫です。むしろ、羊羮に関することなら、僕はまだまだ部長には敵わない。部長がいてくれるから、ブランドに傷をつけずにいられる」  増田は首を横に振った。 「あいつらは金の亡者です。職人も我々品質管理部も、あなたの味方ですから」 「ありがとうございます。でも今日の社員を決して叱らないようにお願いします」 「ああ、彼ならさきほど辞表を預かりました」 「え……」 「最初から寅山常務はそのつもりで、彼に責任を押し付けるつもりだったのでしょう」 「そんな」  普通では考えられない。けれど、そうまでして自分の都合のいいように会社を組織を動かそうとする。それはかつての父のやり方でもあった。  そしてその父に負けず劣らず、常務である伯父も、利益になることしか考えない経営方針なので、現場の人間から忌み嫌われている。父が倒れたとき、まっさきに社長の座を狙ったのは伯父だった。それを株主一同が止めに入り、寅山を擁立させたのだった。 「昔の東海支社も常務が支社長だったときは経営が破綻しておりました。本当にあの人が社長にならなくてよかった」 「少なくとも、みんなが安心してくれたのなら、僕が社長になった甲斐があるでしょうか」 「なにをおっしゃいますか、あなたが社長になってから、現場は活気を取り戻していますよ」 「そうだといいんですけどね」  そのあとは少し談笑して、増田は何度も何度も頭を下げて、社長室を出ていった。  寅山の中で、一番大事にするべきものは製品である羊羮で、その次は羊羮に携わる社員だと思っている。誘拐されたあの日、『俺は羊羹のために一生懸命に働いていた父親を助けたい』と言った柴田の言葉が忘れられないでいる。寅山羊羹のために羊羹を作っている社員こそ、会社から大切に扱われるべきだし、羊羹を好きでいてくれる顧客に変わらない味を届けることを忘れてはいけないと思っている。  だから常務である伯父がどんなに汚い手を使っても、自分は会社を社員を、そして羊羮を守らないといけないと思っている。それができるのは自分しか、いないのだ。そのために社長になったのだ。 ――兄さんだったら、同じことを思っただろうか  喜之助より十才年上の兄、寅山喜蔵は自分が小学校を卒業する頃には、寅山羊羮に幹部候補として入社していた。子供の頃から、頭がよく、運動神経もよく、自分にとっては優しい兄だった。そして母はそんな兄を溺愛していた。  父の期待を受けて、兄は大学の頃から経営を学び、事業を手伝っていた。ちょうどその頃、全国各地に工場を置き、直営店でしか買えなかった羊羮を全国の百貨店に流通させる過渡期で、一番会社が大きくなった時代でもあった。父の後を継いで、社長になるのは間違いなく、兄だと誰もが疑わなかった。  一方、多感な時期に人に言えない性癖を開花させられた弟は、表の顔は寅山羊羮の御曹司として、不在がちな両親と兄の代わりに、祖母に厳しく育てられていた。そして美味しい羊羮を食べる機会に恵まれ、寅山羊羮とのれんをわけた職人のところにも、祖母とよく出掛けた。  羊羮に親しんだ幼少期を経て、寅山は高校卒業と同時に、羊羮職人のもとに弟子入りをすることになる。兄が父と一緒に寅山羊羮を大きくしようと頑張っているのなら、自分は羊羮の味を守っていこうと職人を目指すことを決めたのだ。大学に進路が決まっていた龍崎と美大に合格した黒川と、いつか三人で一緒に仕事をしようとそれぞれの夢に向かって歩き出したのも、ちょうどこの頃だったと思う。  そして五年修行したのち、寅山羊羮に入社し、品質管理部に配属される。その頃の兄は、すでに幹部の仲間入りをしていた。  兄とは、あまり仕事の話をしたことはなかったが、顔を合わせれば、自分のつくった羊羮が美味しいので、また食べたいとよく褒めてくれた。羊羮で兄弟は繋がっていたように思う。いつか、自分も会社に貢献できるような立場になったら、兄とそして父と肩を並べたい。それが寅山の夢だった。そしてその夢は、兄の突然の事故死により破れ去った。享年三十五才、早すぎる死だった。  その翌年、母がそのあとを追うように病死する。一度に家族を二人失い、父は今まで以上に仕事に没頭するようになる。寅山もまた、品質管理部で日々、羊羮のことを考える毎日を送る。まさか、近い未来に父が体を壊すことになるとも知らずに。  父が病に倒れたあと、早急に三代目社長を擁立しなくてはいけなくなり、準備期間は二年もなかったと思う。株主総会にて、過半数の賛成で寅山喜之助は三代目社長を就任する。社長の世話係でもあった柴田は、そのまま自分の運転手になり、今に至る。もうかれこれ社長に就任してから五年の歳月が過ぎた。  もう五年も社長をやっているというのに、時々思うのだ。自分は、どうして社長をやっているのだろうか、と。

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