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14:社長の器

「おい」 「え、なに?」  呼ばれて、顔をあげると目の前の龍崎は、頬杖をついて、つまらなさそうな顔をしてこちらを見つめていた。  定時に会社を出て柴田に駅前で下ろしてもらい、そのあと、龍崎と合流して馴染みの中華料理屋に入った。食事のあと、デザートの杏仁豆腐がうまいのだが、寅山の目の前にはまったく手をつけられていない杏仁豆腐が鎮座している。 「何、ぼーっとしてんだ」 「……ごめん」  龍崎の目の前には、杏仁豆腐のなくなった空いたグラスがあった。 「おまえは、どうせ隠し事できないんだから、話しちまえよ」  そう言いながら、龍崎は煙草に火をつける。ZIPPOのオイルの匂いが寅山の鼻先をかすめた。 「僕は、社長の器じゃないのかもしれないな、って」 「なんだよ、今さら」 「慎也はそういう悩みがないと思うけど」  龍崎は、ふー、とタバコの息を天井に向かって吐いた。 「ないな。俺の好きにやる会社なんだから、俺が社長じゃなくてどうするんだ」 「好きにしていいから、社長なの?」 「じゃ、会社にとって社長の仕事ってなんだよ」 「考えたことないな」  気づいたら社長になれ、と言われていたのだから考える暇なんてなかったのだ。 「まだ、おまえ「社長なんてなりたくてなったんじゃない」とか思ってるんじゃないだろうな」 「それは……今はないと思ってるけど」  龍崎はもちろん自分が社長になった経緯を知っている。 「以前はあったのかよ?」 「そりゃあね。だって、兄が父親の後を継ぐって生まれたときから決まってたようなものだし」 「じゃ、もっと適任者がいたら、社長を譲ってもいいってのか?」 「それはそのときにならないとわかんないけど」  なんだそれ、と龍崎がつまらなさそうに息を吐く。もとから弱い言葉を好まない男なので、少しでも自分が自信のない発言をすると、途端に顔に出る。寅山のことを、隠し事のできない男だと言うけれど、龍崎だってよっぽど感情を隠せない男だ。 「そういえば、あくまで噂だが、おまえんとこの常務、あまりいい話を聞かない」 「え、喜郎伯父さんのこと?」 「留学してるドラ息子がいるだろ? あれが、寅山羊羮の次期社長だと酒の席で触れ回ってるらしい」  なんで、龍崎がそんなことまで知ってるんだと思うけれど、あまりにも龍崎の交遊関係は広いので、寅山はついていけないし、理解しようとも思わない。 「伯父さんの息子って、たしかまだ22歳くらいだったはずだけど」 「大事なのはそこじゃねえよ。なんでおまえみたいな若い社長がいるのに、次期社長の話をしてんだってことだよ」 「僕がこの先、定年を迎えたら、ってこと?」  はぁ、と龍崎はため息をつく。 「これは俺の推測だが、そいつ、おまえを失脚させる何かを持っているんじゃねーか」 「僕を? まぁ伯父さん、もともと社長になりたかった人だしね」  今日の会議のことを思い出せば、目的のために手段を選ばない人間であることはよくわかる。 「おまえんちまで送る」  龍崎は席を立った。 「え、一人で帰れるよ。なんなら、柴田呼ぶし」 「あのな。なんで俺がおまえを駅に呼んだと思ってるんだ」 「お酒飲むから?」 「アホか。ほら、帰るぞ」  龍崎に引っ張られるようにして駅から、電車に乗る。言われてみれば、以前なら柴田の車か、タクシーだったはずなのに。最近、龍崎に会うとき、帰りはいつも電車だ。別に電車が苦ではないが、龍崎は意図して電車にしているということだろうか。あまり深く考えず、龍崎について店を出た。  最寄り駅から、龍崎と歩くと十分ほどで着く。寅山の家は郊外の一軒家だ。以前は、父も母も兄も住んでいたが、今は、寅山と世話をしている住み込みの家政婦二人と、三人で暮らしている。家政婦は、家事全般と毎日交代で父の病院に顔を出して世話をしてくれているらしい。もちろん、家政婦は龍崎のことは知っているし、こうしてよく食事にいく間柄であることも知っている。夜十時をまわれば、彼女たちは寝てしまい、龍崎と顔を合わせることはめったにない。今はすでに午後十一時を過ぎていた。 「上がってく?」 「羊羮と茶くらい出せよ」 「本当に羊羮好きだね。あ、よかったらうちに今月の羊羮あるから、明日浜村くんに持ってく?」 「おまえが会社に届けに来いよ」 「ねぇ、君くらいだよ? 直接僕に羊羮を届けさせるなんて」  たわいもない話をしていると明かりのついた自宅の門にたどり着いた。龍崎と肩を並べて、門から庭を抜けて、玄関に向かって歩く。 「あ、待って。郵便受けに何か入ってる」  玄関の入口にある赤い郵便受けに、茶色の封筒を発見し、それを取り出す。周囲は玄関の豆電球だけで、薄暗かったが、封筒には宛名も差出人も書かれていないようにみえる。 「なんだろうね。別の家と間違えたとか?」  龍崎は寅山の持っていた封筒を、受け取ると神妙な表情を浮かべている。 「いや、これは郵便で届いたものじゃない。ここまで来て、投函されてる」 「なんか気味悪いね」 「観てみるか」  玄関に入ると、家の中はしんと静まりかえっている。  龍崎はそのまま二階にある寅山の部屋へ向かう。寅山は台所でお茶と羊羮を用意し、一階の和室に家政婦二人の部屋があるので、物音を立てないようにして階段を上がっていく。  二階につくと、奥の部屋から明かりがもれていた。龍崎が部屋で、デッキを用意しているのだろう。いつも龍崎は、寅山の部屋をまるで自分の部屋のように扱うが、それも慣れたことなので気にしない。そして、さっきのCDらしきものが再生されたのだろうか、微かに人の声が聞こえる。部屋に近づくにつれ、その声がなんの声か、そして誰の声か、わかった。 ーーなんで?  それは自分の声だった。そして、今の自分の声よりも若く、青く、そして妖艶な喘ぎ声だった。時々、叫ぶような声と混じって、大人の男の声がする。  扉の開いた部屋の中をのぞくと、テレビ画面に向かって立ち尽くしている龍崎の後ろ姿があった。そして画面には、かつて、三人の男に羽交い締めにされて、喘いでいる全裸の自分の姿が映っていた。泣きながらも、腰を振り、乱れていながらも、その表情は悦びに満ちている、高校生の自分がそこにいたのだ。 後ろにいる寅山の気配を感じたのだろうか、龍崎が振り返る。 「これはお前か?」 「うん。そうだ、そういえばあのときビデオらしき、ものが動いてた」 「……そうか」  自分と目が合った龍崎の表情は笑顔はなく、何か思い詰めた様子だった。 てっきり「おまえ、こんなもん録画されてるぞ」なんて笑いながら言うのかと思ったのにそうではなかった。  龍崎が再び画面に視線を戻す。画面では、若き寅山が男たちに前から後ろから犯されていて、そのたびに嬌声をあげている。その声は、すでに体が悦んでしまっている状態だとわかる。普通ならこんな醜態を友人に見られてしまうことに羞恥の念を抱くところだが、もう龍崎には見られて恥ずかしいものは何も残っていない。 「僕を拉致した人が、高校生は人気なんだって言ってたよ。もしかしたら、これもどっかに流出してたりしてね」 「だとしても、なんで今頃になって、これをわざわざおまえんちに投函する必要がある?」  部屋には、まだ若い寅山が悦びに満ちた喘ぎ声が響いているというのに、龍崎は、もっと先のことを見据えている。 「なあ、最近、何かあったか?」 「最近……」 「おまえんとこの古狸たちを怒らせるようなこと、だよ」  古狸たちとは、龍崎がよく使う、寅山の会社役員たちのことだ。  以前、龍崎は広告掲載の際に、役員一同の前でプレゼンしている。寅山の同級生というだけで広報広告のプレゼンに名乗り出てきた生意気な若造と決めつけ、なおかつベンチャー企業だった龍崎コーポレートを寅山に汚名を着せて、潰そうとしたその卑劣な手腕も知っている。そのとき、野次を飛ばされたり、無理難題を押し付けられても、龍崎は怯むことなく矢面に立ち、すべてに対して的確な回答を投げ返した。  彼らが社長という立場である寅山を忌み嫌っていることを、龍崎はそのとき察したらしい。 「怒らせたといえば、今日、かな」 「今日?」  寅山は今日の新製品会議の話をした。品質管理部の部長の出張時を狙って、新製品をゴリ押し、ホテルチェーンとの強引なタイアップを推し進めた、自分の伯父である常務の悪行だ。 「今日の今日でこれってことは、相当怒らせたってことか」 「でも待って。どうして伯父さんが、この動画をもっているの?」 「おまえ、あの誘拐未遂事件は、柴田さんの父親の仕業だと思ってるのか?」  その龍崎の問いに、驚いたのは寅山のほうだ。あの誘拐未遂事件の犯人が、柴田の父親でないことは、寅山と柴田しか知らないはずだった。柴田は寅山が監禁されている間に、父親と連絡がつかない状態になっていたことも、警察にも話さなかった。そもそも事件に柴田が関与していることも、寅山は警察に話していない。自分と柴田しか知らない事実を、なぜ、龍崎は知っているのか。  あっけに取られている寅山を龍崎はまっすぐ見つめる。 「驚くことないだろ?俺はあのとき、子供だったせいで何もできなかった。友人であるおまえを助けることができなかった。だから、おまえの会社情報を調べるついでに事件のことも調べたんだ」 「それにしても……」  個人で調べられる範疇を越えている気がする。やはり柴田が龍崎に情報提供をしているのではないかと考えるのが普通だ。 「おまえ、何か知ってることがあるだろ」 「そりゃ……慎也に関係ないことは、言ってないよ」 「全部話せ」 「なんで? そもそもこれは、僕の会社のことであって、慎也には関係ないよね?」 「全部知らないと、おまえを守れないだろ!」  龍崎の剣幕は本気だった。本気で、自分を守ろうとしてくれているのが伝わる。でも、慎也は会社の関係者でもなければ、ましてや警察でもない。たかが広告代理店の社長が、老舗で大企業の寅山羊羮の社長である自分の、何を守れるというのだ。 「慎也の気持ちは、嬉しいけど、君を巻き込むわけにはいかない」 「巻き込む?」 「確かに、これは僕をよく思っていない役員の仕業かもしれない。でも証拠があるわけじゃない。それに、あの誘拐未遂事件と今の役員といったい何の……」  そう言いかけて、寅山はハッとした。 「そういえば、伯父さんは当時東海支社の支社長をしていた頃、経営が破綻していたと、部長が今日言っていた」  柴田の父は豊橋工場の工場長で、当時の社長、すなわち、自分の父が解雇を命じた。 「おまえは、豊橋工場が閉鎖になった理由を、知ってるか?」  もちろん、知っている。それは信じがたい事実だけれど、閉鎖もやむなし、と思われる事件だった。  寅山は当時、まだ学生だったが、それを知った父が怒りに震えていたのを覚えている。工場長は人としてやってはいけないことをした、と。 「羊羮製品への異物混入。当時工場長だった柴田さんの父親が責任を取らされた。他にも工場の従業員が解雇された、だろ?」 「そんなことまで知ってるの?」 「まあな。クライアントになる会社のことだ。調べるに決まってんだろ。その豊橋工場閉鎖騒動のあとで、おまえが誘拐されている。偶然にしては出来すぎてる」 「ちょっと待ってよ、まさか工場を閉鎖に追い込んだのは……」 「ついでに誘拐事件をでっちあげて、工場長をその犯人に仕立てた」 「そ、んな……」  寅山は、がくりと膝を折ってしゃがみこんだ。DVDを映していた画面はいつしか、再生終了を意味する真っ青なブルースクリーンになっていた。 「でもあくまで推測に過ぎない。とにかくその常務が一番の黒幕で、おまえを失脚させたがっている」 「伯父さんが……」 「ついでに言うが、おまえは自分の父親がしゃべれなくなったのを知っているか?」 「え?」  父親は病気療養中で、誰とも会いたくないと言っていると聞いている。自分が社長に就任してから数ヵ月後に入院して、会長という肩書きのまま、今もなおずっと病院にいる。 「これは柴田さんに口止めされてるんだが、俺はおまえが知らなきゃいけないことだと思う」 「父さんが、しゃべれないって、どういうこと?」 「豊橋の工場が東海支社の経営破綻の隠蔽工作で閉鎖させられた疑いがあることを知って、ショックで倒れたそうだ」 「そんな……」 「そりゃそうだろうな。自分が解雇したんだから」 「……」  今の自分だって言葉を失う。 「柴田さんはおまえが聞いたら、ショックだと思ってずっと言わずにいた。でもおまえは、柴田さんの父親を解雇した自分の父親である社長の代わりに、柴田さんをかばったんだろ。それならちゃんと知るべきだ。おまえの父親がしたことを」 「でも父は、そのことを知らなかった……」 「おまえの父親は、羊羮に関してはからきしだったけど、ビジネスセンスには優れていた。だから今の寅山羊羮がある。でも、末端までに目が届かなかったんだろう。現地にも行かず、報告だけを鵜呑みにして、豊橋工場を閉鎖し、社員を解雇した」  そんな事実を知ったら、言葉を失ってしまうのも頷けてしまう。 「ここからはあくまで推測だが、おまえんとこの社員は、このことをみんな知ってるんじゃないか?」 「どういう、こと?」  龍崎はそっと、寅山の横にしゃがんだ。 「だからおまえを社長にして、負の連鎖を立ちきりたかったんじゃないか? 常務を社長にするわけにはいかないと、みんなが思ったんだろうよ」  言われてみれば思い当たる節はいくらでもある。伯父が狙う社長の座から守るのは、兄のいない今、寅山喜之助、自分しかいなかったのだ。 「クソだな」 「え?」 「もうおまえが社長である必要はない」 「何、言ってんの?」 「その古狸に社長を譲れ」 「そ、そんなことできるわけないでしょう!」 「そんなクソみたいな会社、おまえが責任を負う必要ない。それにおまえだって言ってただろ、なんで社長をやってるのか、わかんないって」 「そりゃ、確かに言ったけど……」  こうして、龍崎の話を聞いていても、自分は消去法で選ばれた社長だという実感はぬぐえない。もとから自分は、生まれたときから二代目社長の息子だった。そして周囲が期待する兄がいなくなり、自分しかいなくなった。だから社長に擁立されただけのことだと理解している。 「おまえくらい、俺が面倒みてやる。だから、寅山羊羮を捨てろ」 「勝手なこと言わないでよ」 「男に犯される快楽でごまかしながらしか、続けられない社長なんて、なんの意味がある!」  的確に心の臓を狙って放たれたその言葉は、自分の胸を矢のように貫いた。昼は淑女のように羊羮屋の社長を務める。自分をよく思わない幹部たちに恨まれながらも、それでも社長の座についたからには、他に誰もいなかった。そしてできることなら社員を、そして羊羮を守りたかった。  でも、その背負いきれないほどの大きな志のためには、逃げ道が必要だった。ただ快楽のためだけにそこにいればいい、肉便器という居場所が心地よかったのだ。 「悪い。言いすぎた」  龍崎は立ち上がり、そのまま階段を降りていった。遠く玄関の戸が閉まる音がしても、呆けたままだった。そして寅山は、頬を緩める。 「言いすぎなんかじゃないよ」 ――だって、その通りだから。    誰も言わなかった。言えるはずがない。でも、龍崎だから言える。寅山のことを龍崎は誰よりもわかっているからこそ、社長をやめろと言ったのだ。この先、寅山が今のような生き方を続けることに、なんの意味もないことを、頭のいい龍崎はわかっていたのだ。 「でも社長じゃなくなったら、僕は……」 ――本当に居場所がないんだ。

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