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15:失脚

 気づけば寅山は、タクシーで別宅に向かっていた。外出は控えるように言われていた柴田の顔がよぎったが、今は顔を合わせたくない。  さっきの龍崎の推測は、ある程度、柴田も共有しているだろうと思う。もともと柴田は父親を助けたい一心で誘拐事件に加担したくらいなのだから、もしかしたらその手がかりのために、今の自分のそばにいるのかもしれない。  あのとき誘拐犯の息子として社会的制裁を受けた柴田のことを、気の毒に思ったのは否定しない。助けてやるなんて高尚なことを言える立場じゃないが、自分のあさましい体のことを知る人間が身近にいてもいいと思っただけだ。それから今に至るまで、自分が羊羮職人として修行していたとき以外は、柴田はずっと自分の世話役としてそばにいた。でも、それすらも、父親の無実を証明する機会を狙っているだけだったとしたら、もう誰のことだって信頼できない。  別に一人だっていい。もとから、一人のようなものだ。自分にあるのは、使い道がない金と限りない性欲だけだ。その性欲を処理するために金がある。今日は、とびきり酷く抱かれたい。疲れて眠ってしまうくらいに、激しくされたい。そして汚されたい。  マンションの前に着き、タクシーをおりる。周囲を見渡すが、いつもと同じ閑静な住宅街で、人の気配を感じない。夜の帳が下りた街は眠りに包まれている。最近は、週末でもない平日の夜に、風俗を呼ぶなんてことはめったになかった。しかも、自分のように複数プレイを好む場合は、調整に時間がかかるかもしれない。それでもいい。いくらでも待つと決めていた。今夜は、一人で過ごすにはつらすぎる。  誰でもいいから自分を犯してほしい。もうすっかり担当デザイナーとしてその腕を認めている蛇原に、金を払って酷く抱かれるのもいい。  そう思案しながらエレベータに乗り、自分の部屋へ向かっていると部屋の前の扉に、誰かが倒れているのを発見した。白いシャツに黒いズボン、普段あまり見ることのない、学生服を来た子供のように見えた。 「君、どうしたの?」  寅山は思わず駆け寄り、彼をそっと起き上がらせようとする。その体を自分の腕にもたれかけ、顔を起こすと、その顔は赤くほてっていて、息が荒かった。額にそっと手を当てるが、熱がある様子ではない。 「家はどこ? 送るよ」 「寅山……さん、ですか?」  彼が自分の名前を告げたので驚く。学生服を着ているような若者に、知り合いはいないはずだが。 「僕を訪ねててきたの? 何か、用だったのかな?」  こくり、と若者は頷いた。 「とにかく中へ入って。立てるかい?」  寅山よりは小柄な彼の腕を肩にかつぎ、持ち上げるようにして立ち上がる。ふらつきながらも彼は、寅山に体を預けてくれる。会社から戻って、そのままの着物姿だったが、なんとか介助することができた。彼を部屋に運び入れ、扉を閉めると、がちゃんとオートロックが閉まる。部屋はいつものように廊下だけライトが点いている。奥のリビングには子供に見せられないものが多くあるので、そのまま自分の寝室に彼を運ぶ。ベッドに座らせるようにしてから、寅山は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、再び部屋に戻った。 「水、飲めるかい?」  こく、と頷く彼に、ペットボトルの蓋を開けてやり渡す。それを受け取った彼は、ごくごくと水を飲んだ。喉が渇いていたのだろうか。 「少し灯りをつけるよ」  ベッドの脇の照明をつけると、彼の顔がオレンジに灯った。水を飲んで落ち着いたのか、ひと息をついた彼に、寅山は目を見張った。こんな年頃の若者に知り合いはいない。けれど、寅山はこの彼の顔に見覚えがあった。 「君は、あのときの……?」  色白で細身の体に、髪はやや長めで、襟足まで延びている。あのときは、確か首輪をつけられていた。あの日、彼の、ステージ上で誰にも触れられたことのないであろう秘部を弄られ、快楽を得た瞬間を目の当たりにした。この青年は、蛇原につれていかれたオークションで、メインとして登壇したあの男だった。 「うっ……」  青年は、びくんと体を震わせ、慌てて股間を抑えた。 「どうしたの?」 「あ…あ……っ」  体が小刻みに震えている。若者に何が起きているのか、寅山にはわかってしまった。彼は、射精したのだ。 「何か、飲まされた?」  触れてもいないのに射精をするなんて、通常考えられない。けれど、あの会場で寅山も媚薬を飲まされている。あの世界では、薬の類は珍しいことではない。  それよりも、あのとき買い手のついた彼が、初対面の寅山のこの別宅を訪ねた理由は、一体なんだろう。 「服、気持ち悪くない? 脱ぐ?」  寅山が優しく声をかけるが、青年はかたくなに首を横に振った。この若者には非がない。ありし日の自分のように、ただ、大人たちに巻き込まれただけだろう。彼がここに来た目的はわからないままだが、それでもこのままここにいるだけなら、大丈夫のはずだ。  ピンポン、とインターホンの音が鳴る。こんな夜更けに、しかもこの家に訪ねてくる人間なんていない。  寅山の身に、何かが起ころうとしている。嫌な予感しか、しない。おそらく、今、外にいるのは招かざる客であることは間違いない。このまま居留守を使うことだって咎められないはずだ。しかし、青年は自分の名前を知って訪ねてきている。もし、この青年を救う者が助けにきたのなら、事情を説明すればなんとかなるかもしれない。  寅山は立ち上がる。  すると青年は、とっさに寅山の袖を掴み、首を横に振った。何かを訴えかけようとしている。けれど媚薬の影響か、声が出せないらしい。 「……ない、で」  それは口の動きから「行かないで」と言っているようにみえた。 「でも、出なくちゃ君を助けることはできない気がするんだ」  青年は首をいっそう、強く振る。 「ありがとう。君はこの先に起こる何かを知っているんだね」  寅山の声に青年は、はっとした表情を浮かべた。 「君は、優しい子なんだね。僕もかつて、自分をかばってくれた相手を守りたいと思って矢面に立った。でも、結局どれもすべて、仕組まれていた。大人の手の中にいただけに過ぎなかった」  青年の目には、みるみる涙が溢れる。 「大丈夫。君は悪くないから」  ぽんぽんと、青年の頭を撫でて立ち上がり、玄関に向かう。扉を開けると、そこにはスーツ姿の男が二人、立っていた。 「夜分遅くに申し訳ありません。寅山さんのお宅ですか?」 「はい」 「今、お一人ですか?」 「……」  その問いに適切な答えがわからない。こんなとき、龍崎ならなんて答えるだろう。 「警察ですが、家の中を見せていただけますか?」  目の前で、縦長の手帳を見せつけられる。警察が家の中を見たいと言っている。これは、かつて、柴田の父親にかけられた容疑と同じだろうか。でも警察なら、中の青年を保護してくれる。自分はあとから、弁護士をつけて、身の潔白を証明できれば――  そのときだった。寝室からガタンと窓が開く音がした。 「おい! 逃げるぞ」  扉が強引に開け放たれ、土足で二人の男が中に入り込んできた。何が起きたのか、わからなかった。けれど寝室からあの青年が二人の男に担がれてでてきたのを見た。 「寅山喜之助」  再び、さきほどの男に名前を呼ばれ、振り返る。 「これからあなたを児童買春の容疑で所轄署に連行します」  寅山に着せられた罪は、誘拐ではなく、児童買春だった。 ***  あれから、二日が過ぎた。  警察署に連行されて、事情聴取された。もちろん初めてのことだ。「罪を認めたほうが早く終わりますよ」としか言わない刑事には、頑なに黙秘を続けた。弁護士が来るまでは何も話してはいけないと本で読んだことがあったので、その後も世間話以外に口を開くことはなかった。  でも「寅山羊羹、美味しいですよね」と言ってくれたときは、穏やかに笑うしかなかった。 ――どうしてこうなったのだろう。  そればかり考えてしまい、夜は眠れなかった。正直、気が狂いそうだった。いっそ、やってもいない罪を認めて、すべて投げ出して、罪を犯した人間として別の人生を歩くということも考えた。けれど社長という立場では、そんなことを自分ひとりで決めるわけにはいかない。社長という立場であっても、自分は決定権があるわけではなく、会社のなかで一番偉い人間ではないのだから。  逮捕された翌日に、朝比奈と名乗る弁護士が来た。寅山羊羹の顧問弁護士が来なかったのは、自分はもう寅山羊羹の人間ではないから、なのかもしれない。そして、朝比奈から「明日、釈放されます」と聞かされる。それ以外に何が起きているのか、といった情報は一切話してくれなかった。口止めされているのか、話すと都合が悪くなってしまうかは、わからない。  ただ、「中学のとき龍崎と同じクラスだったんです」と穏やかに話す彼もまた、龍崎と同様に仕事のできる切れ者の匂いがした。  釈放される当日、結局のところ、自分は罪人にならなかったことを知る。そもそも性交渉もしていないのだから、鑑識で調べてくれればすぐにわかることだと思うが、どうやら被害届を取り下げられたから、らしい。  けれど、なんとなくわかっていた。実際に罪を犯したということではなく、火のないところに煙を立てた、という事実に意味があるということに。  丸三日間、世話になった警察署から出ていく際に、逮捕された日と同じ着物を着て、いざ失礼しようとすると、なぜか裏口から出るように言われた。迎えの車が来ているから、とのことだったが深く考えずに、扉を開けた寅山に、一斉にフラッシュが降り注いだ。その明るさに目がくらむ。 「ひとことお願いします!」  これは、ワイドショーなどで見たことのある光景だ。自分は社長ではあるが、ただの一般人で、こんな扱いを受ける立場にはない。 「寅山さん、こちらです」  カメラを持つ人間とICレコーダを突きつけてくる人間の隙間で、自分の腕を引いているのは朝比奈のようだったが、正直、人が多すぎてよくわからない。そして、記者らしき人が口々に何かを叫んでいる。 「由緒正しい寅山羊羹のブランドに傷をつけたことに対して、世間へお詫びの言葉もないのですか!」 「一部では不買運動も噂されていますが、どうお考えですか?」 ――ブランドに傷? 不買運動?  耳に飛び込んでくる言葉は、どれも物騒なものばかりだ。人だかりに囲まれたまま歩いていると、見慣れた車が見えてきた。運転席に乗っている柴田は心配そうにこちらを見つめている。朝比奈が寅山を隠すように抱いて、そのまま車まで向かう。そして後部座席の扉を開けて、寅山の体を押し込める。 「寅山羊羹の消費者は、貴方を許しませんよ!」  その記者の言葉を最後に、車のドアが閉まった。 「社長、おかえりなさい」 「お勤めご苦労だったな」  運転席の柴田と、助手席の龍崎が声をかける。ほぼ同時に、車は、記者たちを振り切るように走りだした。 「これは……」 「気にすんな。どうせ一週間も経てば、世間は忘れる」 「気にしないわけないだろ! こんな騒ぎになっているなら、ちゃんと世間に説明する。僕は何もしていないんだ!」 「寅山さん、少し体を休めましょう」  朝比奈が、優しく体を支えようとする。 「朝比奈さん、僕は大丈夫です。柴田、会社に連れてってくれ」 「社長……」 「柴田さん、会社には行かなくていい。おまえは少し冷静になれ」 「冷静? なれるわけないよ、僕のいない間、どうなったのか、説明してよ」 「寅山さん、今は……」  朝比奈が言葉を選んで、神妙な面持ちになった途端、龍崎が遮った。 「てめぇは社長をクビになったんだよ」 「え」  龍崎はまっすぐ前を向いたまま、答えた。車内の空気が一気に張り詰めた。

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