18 / 28

17:傷を癒す甘いひととき

 光が顔を照らし、その眩しさで薄目を開ける。  寝室にある大きな窓は、グレーの遮光カーテンで遮られているが、開いた窓から吹き込んでくる風に揺れてできた、カーテンとカーテンの繋ぎ目から、光が差し込み、それが寅山の顔に届いていたようだ。  起き上がろうとすると、体中に鈍い痛みが走り、寅山は顔をしかめた。思えば、ここに来たのは昨日の午後で、それからは何度もセックスをして、目を覚ますたびに部屋を包む闇が深くなっていったのは覚えている。今は、太陽の角度的には昼前近くだろう。すっかり眠りこけてしまったらしい。もしかして長い夢を見ていたのだろうかと思うが、この体のけだるさが、間違いなく事後であると物語っている。  軋む体を無理矢理起こすと、薄いタオルケットの下は素肌だった。隣で寝ていたはずの龍崎はいない。そこにいたであろう場所に手を伸ばしてみるが、人のぬくもりも残っていない。昨日の情事は、お世辞でも優しいセックスとは言い難く、まるで発情期の動物のように夢中で体を繋げた。龍崎も自分も、周囲に気を遣う余裕などなかった。それなのに、寅山の寝ていた場所は、シーツは、ぱりっと真新しいものに変わっている、至るところに投げ捨てられていたコンドームの残骸も、すっかりなくなっていた。  龍崎は、眠っている寅山を残し、仕事に行ったのだろうか。それは当然のことだ。寅山はすべてを失ってしまったけど、龍崎の昨日と今日は普段と変わらないものなのだから。どうしていなくなったのか? と問えば、なんで俺がおまえと一緒にいなきゃいけないんだ、と真顔で答える、そんな男であることは昔から知っている。もしかして、二人の距離は縮み、二人の関係も変化するのかもしれない、と最中に脳裏によぎったが、あの龍崎が変わるはずないのだ。変わらないところもまた、龍崎らしいと言える。  周囲を見渡すと、足元にTシャツとハーフパンツ、そして袋に入ったままの真新しい下着が置いてあった。最初に部屋に着いて、この部屋着を突き出されたときは、それどころじゃないと頭に血が上ったが、今は、体はだるくとも、頭は落ち着いている。適度の疲労が睡眠を促したおかげで、すっきり起きられたのかもしれない。下着を開け、Tシャツを着る。自分には少し大きめで、太ももが隠れるくらいだ。モスグリーンのハーフパンツは自分には似合わない気がして履かずに部屋を出た。  ふわり、と奥から廊下へ向かって風が流れてくる。窓が開いているのだろうか。誰もいないなら窓を閉めようとリビングに向かうと、そこには、リビングに隣接したベランダに、風に吹かれて揺れている物干しに干された白いシーツと、その横に、Tシャツにハーフパンツ姿の龍崎が胸の高さくらいある手すりのついた壁に腕をのせ、外を見つめていた。そばで、ゆらゆらと煙草の煙が揺れている。  そっと龍崎に近づいていくと、足音で気づいたのか、龍崎が振り返る。口にくわえている煙草を指で挟み、煙を吐きながら寅山に声をかけた。 「ウス」 「いないかと思った」 「なんで? 休みって言っただろ」 「言ってたけど、さ」  ここにいるのが当たり前のように言われて戸惑う。 ――そばにいてくれて、置いてかないでくれて、ありがとう。  思っても、言葉には出さない。言ってもきっと返事はない。いないことが当たり前だと思って、期待していなかったせいか、この場に龍崎がいることに安堵する。  寅山はちょうど置いてあった大きめのビーチサンダルに足をいれて、龍崎の隣に立ち、空を見上げた。真っ青な青空に、ふわふわとした白い雲が風に吹かれ、伸びている。高層マンションのせいか、地上から遠く、まるでここは下界から切り離された場所のようにも思える。  龍崎も、外に向き直り、両腕を手すりに載せてもたれながらゆったりと煙草を吹かせている。時折、香るラッキーストライクの香ばしい匂いは龍崎がそばにいると感じて、安心する。寅山は後ろから、そっと龍崎の腰に両手を伸ばし、覆い被さるようにその背中に頬を寄せた。いつもの龍崎なら、くっつくな、うっとおしいとか言われて、はねのけられるかもしれないと覚悟していたけれど、それはなかった。  背中にくっつけた頬から龍崎の温度を感じ、しばらくこうしていたいと思った。寅山を背中で支えたまま、腕が小さく動く。反対の手に携帯灰皿を持っていたのか、煙草をねじ消しているようだった。体がこちらを向いたので、体を離すと、向き合った龍崎の、伸ばした両手がふわりと寅山の体を抱き寄せ、その腕にとじこめた。一瞬、何が起きたのかわからなかった。ただ、龍崎の背中に勝手に甘えているより、こうして腕の中にいるほうが緊張してしまう。包んだ両手があまりにも優しくて、心臓がドッドッと早鐘を打つ。 「体、つらくないか?」 「……うん」 「そうか」  え、それだけなの、と思うくらいに、龍崎はそれから言葉を発しなかった。ただ抱き寄せられているのは恥ずかしいが、寅山も龍崎の背中に躊躇しながらも手をまわす。龍崎はその手に応じるように体を預け、二人はまるで貝殻が合わさるかのように、自然に抱き合った。  何度も求めあって抱かれた最中にも、こんな体勢になった。けれど、それはセックスについてきた便宜上のものであって、一度体を離してしまえば、なかったことになるものだ。それなのに昼間から、セックスもしていないのに、こんな風に抱き合うことになるとは、まるっきり予想外で、困惑する。 ――このあと、何したらいいんだろう?  体の関係だけの経験は、そのへんの同年代の人間に比べたらダントツに多いはずなのに、抱き合ったその先は、何をしたらいいのか、中学生でもわかりそうなことがわからない。羊羮のことは詳しいのに、女性のことはわからない。そして男性の下半身事情は詳しいのに、こういうとき恋人なら何をするのか、知らない。 ――いやいや、僕と龍崎は恋人じゃないし!  あわてて、脳内で否定する。付き合ってって言われてないし、そもそも自分達は好き同士じゃない。愛がなくても、相手が好きじゃなくても、セックスはできることは、何より自分が一番知っている。 「飯、食うか?」  龍崎の優しい声が降ってくる。 「え、あ……うん」 「わかった。リビングで座って待ってろ」  体が離れたと思ったら、そっと額にキスをおとされた。一瞬、なんのことかわからず、寅山は、体を硬直させてしまう。そんな自分に構わず、龍崎は通りすがりに、寅山の頭をぽんと叩き、部屋に入っていく。 ――そうか。今の自分は、すべて失って何もないから、優しくしてくれているんだ。  そんな龍崎の優しい甘さは、自分にとって、かえって痛い。忘れていたけれど、自分はかわいそうな人間だったのだ、と改めて思い知らされた。 それから少し経ち、呼ばれてダイニングテーブルに着席すれば、青地に水色ストライプのランチョンマットが二組敷かれたテーブルに、白い広口の皿に盛られたペペロンチーノが運ばれた。彩りに細く切られたベーコンと、ほうれん草がアクセントになっていて、まるでカフェで出されたようなパスタだった。 「これ、本当に、慎也が作ったの?」 「他に誰が作るんだよ」 「すごい……」 「は? こんなの普通だろ」  待っている相手、リビングから手際よく料理する龍崎の背中を見ていたが、まったく無駄がなかった。あれよあれよ、という間に、茹で上がったパスタは鍋からフライパンに移され、ほのかに唐辛子とにんにくの香りが広がったと思ったら、もう出来上がっていた。 「慎也、料理するんだね」 「こんなもん料理のうちに入んねぇよ」  一瞬で、パスタ職人を敵に回した気もするが、この目の前の、ホカホカと湯気の立った職人顔負けの鮮やかなパスタなら、味も期待以上のような気がする。 「食えよ。さめるだろ」 「あ、そうだよね。じゃ、いただきます」 「どーぞ」  置いてあったフォークで、少な目に麺を絡ませ、口に運ぶ。口の中で、適度なオイルとぷりっとしたちょうどいい茹で加減のパスタと、絶妙な塩味にニンニクと唐辛子がちゃんと主張して、美味しさが広がった。 「えー……美味しい……」 「なんで、えー、なんだよ」 「だって慎也のくせに美味しいとか」 「キャラじゃないってか?」  そうかもな、と笑いながら、龍崎はパスタを口に運ぶ。こんなに美味しいペペロンチーノを食べたことがあったっけ、と思っている自分の前で、当たり前のように食べ進める龍崎には、もっと味わって食べろ、と言いたくなる。 「つーか、誰かに自分が作った料理食べさせたのなんて、初めてだわ、俺」 「そうなんだ……」  きっと自分が愛されていて、大切にされていたら、感激するところなんだと思う。でも、たまたま、偶然、というだけのこの状況に、また食べたい、また作ってとは言いがたい。いつか、龍崎の作る料理を当たり前のように食べる存在ができるかもしれない。自分じゃない誰かは、それを当たり前のように食べるのだ。パスタはとびきり美味しいのに、気持ちは沈んだ。美味しいと思えば思うほど、龍崎が自分から遠のいて行く気がするのだ。 「朝、淹れたコーヒーだけど飲むか?」 「うん」  朝、という言葉に、ふとベランダを見ると、シーツが風に揺られて、はためいていた。自分が寝ている間に、汚れたシーツを洗濯し、起こさないように気遣いつつ、新しいシーツに取り替えたのだ。なんというか、こんなにかいがいしく世話を焼くという龍崎を想像できなかったし、もしかして龍崎じゃない誰かが、掃除だけしに来たのではないだろうかとさえ、思う。けれど、あの料理の手際の良さを考えると、おそらく普段から家事全般を自分でこなしているのだろう。頭もよく、仕事もできて、ルックスもよい、そして、家事もできる。問題があるとすれば、少々傲慢な性格くらいだ。いや、それが一番問題なのだろうが。 「ふふ」 「なんだよ、思い出し笑いかよ。気持ち悪いな」  コーヒーをマグカップに注いでくれながら、容赦ない。ああ、これこれ、これがいつもの龍崎だ、と安心する。 「慎也は性格さえよければ、完璧だから、神様はちゃんとわかってるなって思って」 「うるせえよ」  予想通りの返事に笑ってしまう。しかし、龍崎は自分で自分をかっこいいとは言っても、モテるとか、そういうことは言わない。自信家ではあるが、傲慢ではない。そういう類いの性格の悪さは、持ち合わせていないのだ。  笑いながら、壁の時計を見ると、12時を過ぎていた。それを見て、寅山は、ふ、と息をついた。 「会社、僕がいなくてもまわっているんだね」  マグカップの表面で揺れる黒い水面を見つめながら呟く。いつもなら、この時間は時計を見ている暇なんてないほど忙しい。社長として確認しなければいけない書類に目を通し、捺印をする。時には、社長として来客を迎えたり、付き合いで他の菓子メーカーの役員と会食することだってある。  こんな風に穏やかな時間を過ごすことは久しくなかったが、逆をいえば、今の自分は、こんな風に時間を過ごすことができてしまう、ということなのだ。 「寅山常務が、社長代行をしてる」 「伯父さんが……」  寅山はうつ向いたまま、続く龍崎の言葉を聞いた。今は、自分の行動を一番知っていた柴田が常務の運転手として動いていること、寅山の事件そのものは大きなものではなかったのに、示し合わせたかのように、週刊紙やメディアが寅山羊羮社長の不貞を取り上げたこと、そして世間が騒ぐよりも早く、百貨店やスーパーから、寅山羊羮製品が自主回収というカタチで消えたこと、そして寅山常務が世間を騒がせたお詫び広告を龍崎の会社ではないところへ依頼して勝手に出していたこと、などを淡々と語ってくれた。  何より驚いたのは、それを自分が、他人事のように聞いていたことだ。まるで遠い世界の話のような、そんな感覚だった。そして同時に、自分はまるで蜥蜴の尻尾のように、不要になって会社から切られたのだと実感した。 「おまえのせいで、寅山羊羮のブランドイメージは傷がついたかもしれないが、基本的には平常通りだ。おそらく黒幕の計画通りに進んだんだろうな」 「計画……」  そもそも買春容疑なんて考えた人間は、寅山喜之助の性事情を知らなすぎる。でもこの際、自分が失脚する原因を作ることができれば、買春だろうが、売春だろうが、どっちでもよかったんだと思う。 「それで今後の話だが」 「もういいよ」  龍崎の言葉を寅山は遮った。 「話してくれてありがとう。よくわかったから、もう大丈夫」  今度は龍崎の目を見て言った。龍崎の表情は、微かにも変わらなかった。 「おまえと俺は同じ社長でも違う。よく考え……」 「ううん、もう答えは出てる。僕は会社にとって不要な人間だった。それだけのことだよ」  今度は、自然と穏やかに微笑むことができたと思う。 「慎也に、迷惑をかけてしまうけど、もう少しここにいてもいいかな」 「そのつもりだから別にいい」 「ねぇ、家に帰れないって、まさか記者でもいるの?」 「ああ、雇われた記者が、出ない証拠を探りに来てる」 「そっか」  もう何を聞いても驚かない。根も葉もない買春の容疑までかけられた。世の中、金と権力があれば、人を容疑者に仕立てることは簡単なのだ。もうそんな渦中にいるのは、正直疲れた。もともと自分は社長の器じゃないし、なりたくてなったんじゃない。でも、こうして結局、伯父が社長の座につくのなら、早かれ遅かれ、こうなる運命だったのだと思う。それなら、ますます自分が社長になる必要はなかったのではないか。 「少し寝るか?」 「え……」  あんなにたくさん寝たのに眠れるはずがないと思っていたのに、ベッドで龍崎の腕に包まれると、不思議と安心して眠りに落ちた。龍崎は気味が悪いくらい優しいけれど、今は、この優しさにどろどろに甘やかされていたい。いつか、龍崎が自分を手放すときは、こんな風に優しくしてくれたことを覚えておいて、いつか自分も誰かに優しくしてあげたい。龍崎には、お礼を言いたい。どん底に堕ちた自分と、一緒にいてくれてありがとう、と。  それから夜がきて、自然と体を繋いで、また朝がくる。時折、パソコンをつけてメールを確認する以外、龍崎はずっとそばにいてくれた。世間話の延長か、時には本棚にある難しそうな本の話をしてくれたり、なにげない会話は、これからを考えさせるような話題は、何ひとつなかった。  そして、三日目の昼。龍崎は煙草を買ってくるといって外に出た。しんと静まった部屋の中、喉が渇いたので冷蔵庫を開けると、扉側の棚に水ようかんが入っていた。スーパーで売っている、安価なものだ。  寅山は、その缶を模した紙容器に入っている羊羹を取り、プルトップを開けると、中には小倉色のつやりとした羊羮がいた。思えば、毎日自社の羊羮を食べていたが、こんなにも長い間、羊羮を食べていないことなんてあっただろうかと、笑う。これからは、羊羮から離れた生活をしよう。そしてときには、こうして安い羊羹を買って食べよう。そのまま、キッチンにあったティースプーンをとり、羊羮をすくって口に運んだ。 ――まずい。  安っぽい小豆と甘味料の甘さに、顔が歪む。こんなに羊羮とは美味しくなかったのだろうか。 ――美味しい羊羮たべたいな。  寅山は思い立って、寝室に戻り、履くのを躊躇していた、今風のハーフパンツを履き、クローゼットにかけてあった着物から財布をとりだし、ポケットに突っ込んでいた。そして、逃げるようにマンションを飛び出し、タクシーを拾った。  駅に着くと、まっすぐ切符の窓口に向かう。寅山の中で、行き先は、すでに決まっていた。 「豊橋行きの切符を一枚ください」

ともだちにシェアしよう!