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18:味を継ぐ者
寅山は、羊羹と書かれた、小豆色した、暖簾の前に立っていた。
商店街の入口にある、昔ながらの木造店舗に掲げられた由緒正しそうな看板は、右から「寅よし羊羹」と書かれていてさらに歴史を感じさせる。
寅山がこの店にくるのは、十五年ぶりくらいだが、当時と、店構えも、商店街も変わっていないように感じる。店内では数人の年配の客が、胸の高さくらいあるショーケースを越えて、奥にいるエプロンをつけた女性と談笑していた。
寅山にとって、美味しい羊羹といけば、自分が手がけた羊羹である。けれど、今は自分のせいで、自社製品が回収されていると龍崎に聞いている。
だから、自分の羊羹に負けずとも劣らない味の羊羹を求めて、ここ、豊橋まで来たのだ。
龍崎の家を出たときに、持っていたのは財布だけだったが、クレジットカードは普通に使うことができて、きっぷも難なく買えた。けれど、あまりにも軽装で、近所のコンビニに出かけるような格好で、寅山は豊橋まで来てしまった。
途中、在来線の中にある中吊り広告で「老舗羊羹屋の息子の乱れた性生活」と銘打った週刊誌の記事が掲げられていた。けれど、記事の書かれた面積的には決してトップ記事の広さではなく、それよりも日本の政治家のトップたちのスキャンダルのほうがよっぽど扱いが大きかった。
それはそうだろう。いまどき、中小企業の社長のスキャンダルだなんて、一時的なニュースになっても、世間はそれほど興味がそそられるものではない。現にここに来るまで、自分が、寅山喜之助だと、気づかれることもなかった。自分が起こしたとされる事件は、世間を騒がせたことには違いないが、所詮、そのうち忘れられる程度のものなのだろう。
ひとまず、今は、美味しい羊羹とお茶を頂きたい。寅山が木製の桟のガラス戸を横に開くと、ガラガラと音が鳴った。
「いらっしゃいませー!」
客と話していたエプロン姿の女性は、元気よく寅山に声をかけた。
「……ご無沙汰してます。芳美さん」
「きーくんなの?」
寅山は、自分の顏を見て、あっけにとられている女性に向かって、頭を下げる。
「ちょっと、本当にきーくん? やだ、どうしたのよ」
女性は、そのまま商品が並んでいるショーケースの脇から慌てて出てきて、寅山に駆け寄る。突然、女性が身内のように親しげに話し始めたせいか、その場にいた客は顔を見合わせる。もとから、芳美は声が大きいが、ヘタすれば店の外にまで聞こえそうな声量だった。
「えっと、羊羹を買いに」
「は? そんなのわざわざ来ることじゃ……あ、そっか。今、アンタ暇だもんね」
「うっ……」
「ニュース、見たわよ。ほんっと、アンタ、バカね!」
知らないはずがないと思っていたけれど、さすがに容赦ない。芳美の大きな声で、すべてを察したのか、その場の客が、寅山を見ながらひそひそと話し始める。
「その……ご迷惑をおかけしまし……」
「この子あれよ、ほらワイドショーでやってた寅山の社長よ。本当にバカよね。売春だって?」
「いえ、買春……です。その、実際は容疑がかけられただけで……」
「どっちでもいいわよ。本当に、アンタは昔から羊羹作る以外、なんにもできないんだから!」
芳美の言い方があまりにもひどいせいか、むしろ、客のほうが寅山に気を遣って、まぁまぁとフォローする。
「早く羊羹買えるようになるといいわね」
「そうよ、寅山さんの羊羹美味しいから」
「すみません、早く元く流通できるように、努力します、はい……」
不憫に思ったのか、芳美よりも、その場の客のほうが優しく接してくれた。なんという恥ずかしい光景だろうか。いっそ、このまま顏を伏せて、逃げ出したい。 しかし、芳美は昔からこういう女性だった。サバサバとしていて、いいものはいい、わるいものはわるい、とはっきりしている。
軽蔑されたり、罵倒されたりするのではなく、バカねぇ、と呆れるいつもの芳美節のほうが、ずっといい。
「なんじゃ、騒がしい」
奥から着物姿の老人が顔をだした。
「お父さん、きーくんが来たのよ」
「喜之助?」
「師匠、ご無沙汰しております」
寅山は深々と頭を下げたあとで、顏をあげると、老人はあいかわらずの、しかめっ面で、久しぶりの再会を祝うという表情ではなかった。
この老人こそ、自分に羊羹のイロハを教えてくれた師匠で、寅よし羊羹の店主である寅山喜左衛門とらやまよしざえもんだ。そして、初代寅山羊羹の社長である寅山喜右衛門とらやまよしえもんの弟にあたる人物でもある。
寅山は、高校を卒業してすぐに、この寅よし羊羹で五年間住み込みで修行をした。芳美は喜左衛門の娘にあたり、寅山の母親と同じくらいの年齢で、修行時代は息子のようにかわいがってくれたという縁があった。
もとから、初代社長は兄弟で羊羹職人だったが、二人は決して不仲であったわけではない。日本中に羊羹を広めたかった兄と、この地に残り、庶民に愛される羊羹を作り続けたかった弟は、それぞれの世界で羊羹を広めていきたいと考えた結果、のれんをわけたと聞いている。すでにこの世を去っている先代は「羊羹作りでは弟に敵わない」と言っていたと聞く。
そして師匠である喜左衛門の修行は大変厳しく、最初の一年は厨房にも入れてもらえず、結局羊羹を作るまでに三年かかった。その間は、店の掃除やら接客、あらゆる雑用をやらされたものだが、今思えばその経験が社長となった今では活きている。全国の店舗の勤務状況についてを知るための指標が、自分の経験から判断できた。そして、自分の作る羊羹の味は、正直言って師匠には敵わないと思っている。
「本当に、買いにきたの?」
「はい、美味しい羊羹が食べたくなって……」
「自分で作ればいいじゃないの」
「えーと……」
今はもう社長じゃなくて、会社にも行っていないという情報は伝わっているだろうか。
「喜之助」
「は、はい!」
師匠に呼ばれ、寅山の背が伸びる。思えば挨拶についても厳しくしつけられたし、着物の所作もすべて、喜左衛門が教えてくれた。
「こっちに来い」
それだけ告げると、喜左衛門は奥の厨房へ行ってしまった。
「ほら、入口にエプロンあるから、もってって、中に入りゃあ?」
芳美がさあさあ、と中へ促すので、喜之助はそのままエプロンを取り、ショーケースの脇を通り、厨房に入った。
広さは六畳くらいで、年季の入った調理器具がきちんと片づけられた厨房は、ふんわりと小豆の香りがした。仕込みの途中なのか、洗ったあとの、つるりとした小豆たちが籠に入って置かれていた。
「あの、師匠……」
それを見つめながら腕組みをして立っている喜左衛門に声をかける。
「作れ」
「え?」
「ここにある材料使っていいから、一本作れ。腕が落ちてないか、みてやる」
寅山の顏を見ることなく、そのまま喜左衛門は厨房の隅にあるパイプ椅子に腰かけた。
その言葉に思わず、ごくりと喉を鳴らす。
修業時代に死ぬほどここで羊羹を作った。作ったものはすべて食べろと言われた。けれど、この厨房に立つのは十五年ぶりのことで、社長になって五年、羊羹作りからは遠のいていた。
――師匠に試されている。
修行期間はひたすら、羊羹に向き合った。思うような味を作ることができず悔しかった。五年経って、最後に食べてもらったときに「もう明日から来なくていい」と言われたが、その言葉の意味が『卒業』を意味していたなんて、芳美に教えてもらい、はじめて気づいたくらいだ。
修行してから、品質管理部門に配属され、ずっと羊羹作りには携わり、今では社長という立場になった。寅山羊羹の頂点に立つ自分が作る羊羹こそが、寅山羊羹の羊羹であるなら、その味は変わらぬものでなくてはいけない。
「わかりました」
寅山は意を決して、握りしめたエプロンをつけ、手を洗う。
座っている喜左衛門に改めて向き直り、一礼した。そこには、皺が深く刻まれたものの、厨房に立ったときの眼光の鋭さが当時からまったく変わらない師匠がいた。
そして二時間後。寅山は、店の奥にある和室で、上等なテーブルを囲み、師匠である喜左衛門と対峙していた。それぞれの前には、均等に切られた羊羹二切れの乗った漆塗りの小皿と、湯呑に入った煎れたてのお茶が 、ふんわりと湯気を立てている。
部屋で待つ喜左衛門の前に、羊羹と茶を運んだあと、そのまま目の前に座らされ、すでに3分は経過している。
「いつまでそうしている?」
「えっ……」
ずっと羊羹を見つめ、黙っていた寅山が慌てて顔を上げる。
「足をくずせ。もうおまえは、弟子でもなんでもない」
「は、はい」
普通に考えて『腕が落ちてないか、見てやる』と言われて、リラックスして聞くわけにはいかない。
これまで、厨房以外でも、馴れ馴れしく話したことなど、記憶にない。当然、足をくずせと言われたことも、今日が初めてだ。
「それではいただくか」
その言葉に、足をくずしかけた寅山は再び座り直し、背筋が伸びる。やはり、きちんと座っていたほうが帰って落ち着く。もし、羊羹の味が、満足できるものじゃなかったら、ただではすまないのではないかと緊張が走る。
添えられていたくろもじが、羊羹を掬うと、その切り口は表面と同じく艶めいていて、隅から隅まで均等の濃さの深い小豆色をしていた。どこを切っても同じ濃度と感触にすること、最後まで同じ味になるように作れ、という指導の賜物だ。
喜左衛門の口に、羊羹が運ばれていくのを直視する勇気は寅山になかった。
出来栄えに、自信がないわけではない。途中一度だけ、味見をしたが、出来上がり直前の羊羹は自分が思ったとおりの味だった。けれど、それはあくまで、自分の口に合うというだけであって、寅山喜左衛門が求めている『寅山羊羹」という暖簾の味を維持できているかは、別の話だ。
寅山の不安をよそに、羊羹は一定のペースで、喜左衛門の口に運ばれていった。どうやら食べ終わるまで、何も言わないつもりらしい。
寅山に緊張が走る。汗をかいたTシャツが背中にべったりと貼り付いているのを感じる。最後に、喜左衛門が、茶を啜ったあと、湯呑をコトンと置いた音を聞いた。
「申し分ない」
驚きのあまり、思わず顔を上げる。
「と、いいますと?」
「申し分ない、と言ったんじゃ」
「それは、その……」
「うまかった。久しぶりに自分以外が作った、作りたての羊羹を食べたな」
その言葉に、寅山は思わず、はぁとため息をついた。
「なんじゃ、自信なかったのか。自分で食べてみろ」
「いえ、食べなくとも味はわかります。でも師匠の口に合うかどうかが心配でしたので」
「昔から変わらない懐かしい味と、生意気にも、少し落ち着いた味がした」
「そういう……もんですか」
「年をとって、だんだん、喜右衛門に似てきたな」
それは、以前、株主たちに言われたことがあった。自分は、父よりも、先代の祖父に似ていると。
「僕は、お祖父様の記憶がほとんどありません。けれど、子供の頃、作ってもらった羊羹の味は覚えています」
「喜蔵も、おまえの兄喜憲も、舌がまったくだめだったからな」
「舌?」
「そうだ。おまえだけは、喜右衛門の舌を受け継いでいる」
それは、初めて聞く話だった。
「舌、ですか」
「そうだ。だから、おまえはその舌で、寅山羊羹の味を守らねばならんのだ」
その言葉に気持ちが曇る。守るどころか、自分がその暖簾に傷をつけたのだ。
「師匠、もう僕は寅山社長ではないのです」
「そんなこと、誰が決めたのだ」
「それは……」
そもそも、こんな不祥事を起こした自分が、このまま社長でいられるはずが――
「おまえ以外に、誰が寅山羊羹の味を作れる?」
「え……いや、羊羹は工場もありますし、別に誰でも……」
「羊羹を作れぬ者が、羊羹屋の頂点に立てると思うのか?」
その言葉は、とても重いものに感じて、寅山は黙った。
「わしらは、羊羹屋だ。なぜ羊羹を作れない者が社長になれるのだ。そんなやつに、社員がついていくと思うか」
違うんです。自分は、消去法で社長になったようなもので、と言いたいのに言葉にできない。
「でも兄さんが」
「喜憲がどうかしたか?」
「もし兄さんが生きていたら、僕は社長になることはなかったんです!」
「誰が言ったんじゃそんなこと」
「それは……」
誰というわけではない。誰もがそう信じて疑わなかったはずだ。
「三代目に寅山喜之助と決めていたのは先代だ」
「え……」
「おまえの父もそう決めていた。兄もそうだ。おまえが社長になったときにサポートするために……」
「そんなはずありません! だって伯父さんは社長になりたいから、僕に……」
「おまえの守るべきものは、なんだ。喜之助」
「僕の守るもの……」
三代続いた寅山羊羹の伝統、暖簾、ブランド……いろいろなものが頭をよぎった。そして、ふと目の前に置かれた小豆色のそれに、落ち着いた。
「羊羹です。そして、この羊羹を好きな人たち、愛してくれるお客様です」
「じゃあ、聞くが。喜郎にそれはできるのか?」
「……できないと、思います」
「なら、迷う理由など、ないだろう」
喜左衛門の言葉は、とてもシンプルな答えだった。羊羹を作れる人間、伝統の味を守れる人間、それが、寅山羊羹の頂点に立つものだと。そう考えると、自分以外にいないと自信を持てた。残ったのが自分、ではなく、自分しかできなかったというなら、社長という立場の重さが変わってくる。
品質管理部に、いくら科学の知識に長けている人間がいても、羊羹作りがうまいわけではなかった。寅山が作った羊羹を科学的に分析し、工場のルートでどのように再現できるかを考える。それが彼らの仕事だった。
最初から、自分が作った羊羹で、今の寅山羊羹は確立していたということなのだろうか。
「おまえの父はうまい羊羹を作れないことがコンプレックスだった」
「父さんが……?」
「だからせめて自分の代では、別の分野で会社を大きくしようとした。喜郎もそうだ。あいつらのやっていることは羊羹屋の仕事ではない」
言われてみればビジネス手腕に長けていた父、そして喜郎もまた、羊羹作りからは遠く離れている。
「これからもおまえの足を引っ張る輩は出てくる。けれど、先代譲りのその舌に、誰も勝てない」
「誰も、勝てない……」
「そもそもおまえは羊羹を作ること以外は、隙が多すぎるのが悪い」
「うう……」
芳美と似たようなことを言われ、耳が痛い。
「だから喜郎なんかに足元を掬われるのだ」
「すみません……」
ごく自然に喜郎の名前が出てきて、龍崎の言葉を思い出す。
『おまえんとこの社員は、このことをみんな知ってるんじゃないか?』
喜左衛門だけでなく、他にも伯父が社長の座を狙っていると知っているとして、自分が簡単に社長の座を明け渡してしまったら、会社は、羊羹は、そして社員たちはどうなるのだろうか。
『…俺は羊羹のために一生懸命に働いていた父親を助けたい』
いつも思い出す柴田の言葉は、社員の願いなのではないだろうか。社員はこの寅山羊羹を愛した人たちなのだ。
そんな社員とお客を、喜郎は守ることができるのか。羊羹作りなら喜郎に絶対負けない自信がある。今は、それだけでも、十分戦える気がした。
喜左衛門と話して、決心がついた。なんだか体まで軽くなったような気がするから不思議だ。
「まぁ、あれも間違いだったというなら、そのうち忘れられるだろう」
「あの……師匠は、僕が捕まったニュースを聞いてどう思われましたか?」
「そうじゃな。芳美と笑っておったわ。よりによって、あの喜之助に性犯罪の罪をなすりつけるなどと」
思い出したのか、高笑いをする喜左衛門の言葉に、何か引っ掛かる。
「よりによって……といいますと?」
「おまえ男色じゃろ」
「だ、だんしょく!」
思わず目を見開く。
「だんしょくって、そのっ……男性にしか興味がないなんて、違いますから!」
「わしも芳美もそう思っておったぞ。孫の顔は無理だから、諦めようと」
「僕は、ノーマルなほうだと……どちらかといえば、ノーマル寄りではないかと……」
女性と付き合ったこともないくせに、何を持ってノーマルと言うのか、わからないが、とにかく男色という類ではないはずだと信じたい。
「まぁ、とにかく早く羊羹を店頭に並べろ。おまえのところが羊羮を売らんと、こっちが忙しくてかなわん」
それだけいうと、よいしょ、と喜左衛門は腰を上げた。
「師匠?」
「老体に鞭を打つと疲れる。もう休む。あとは勝手に帰れ」
「ありがとうございました」
寅山は畳に手をつき、土下座をするように深々と頭を下げた。喜左衛門の足音が聞こえなくなるまで、ずっと頭を下げていた。
盆の上に羊羹と湯呑を乗せ、厨房に戻るとそこには芳美の後ろ姿があった。
「芳美さん」
「んぐっ!」
後ろから声をかけると、芳美は肩をびくりとはね上げさせて驚いていた。そして、急に蒸せこんだので、寅山は慌ててその背中をさすった。
「大丈夫ですか?」
「げほげほっ! 突然、声かけたらいかんがね!」
芳美の手には羊羹が握られていた。
「それ、僕の?」
「あ、バレちゃった。だって、きーくんの羊羹久しぶりで美味しいんだもの!」
そして寅山の顔をみながら、芳美はまた持っている羊羹をぱくりと食べる。そんな茶目っ気たっぷりの表情に、思わず顔がほころぶ。
「どうだった?」
「やっぱり師匠はすごいな、と思いました」
「まあね、でも、なかなか死なないわよね。もう今年95歳よ?」
「ええっ、それでも現役で職人なんですね」
「そうよ。でもお父さんの代で、ここもおしまいだけどね」
喜左衛門には芳美以外にも子供はいたが、すべて女だった。過去に、自分よりも前に弟子が一人いたらしいが、結局、寅山のあとは弟子をとらなかったという。
悲しいが、老舗産業は跡継ぎがいなければ途絶えてしまう。それが現実だ。
「もう時効だから話しちゃうけどさ、お父さん、二回、きーくんを養子に欲しいって掛け合ったらしいわよ」
「え?」
そんな話は、初めて聞く。
「まだ子供のときと、あと修行してるときもね。あのときは、喜憲くんいたしね」
「知りませんでした。でも父は断ったってことですか?」
「そうよ、喜之助は三代目社長にするので、って。あなたのお父さん、昔から決めてたみたいね」
「父が、僕を?」
――兄ではなく?
「喜憲くんもいい子だったけど、初代の味がわかる舌を持っていなかったから仕方ないわね」
もしかすると自分がここに修行しているときも、自分がいずれ社長になる人間なのだと芳美はわかっていたのかもしれない。だからこそ、礼儀も接客もすべてを厳しく教えてくれたのだとしたら、何も知らなかったのは自分だけだったかもしれない。
なぜ、自分が社長なんてやらないといけないのか、と荒くれていた当時の自分に教えてやりたい。
――自分だから選ばれたのだ、と。
「芳美さん、僕、帰ります」
「え? 何よ、夕飯たべていかないの? なんなら泊まっていきなさいよ」
「早く社長に戻らないといけないので」
自分でも驚くほど自然に笑えたような気がした。
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