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19:失ってはじめて気付く恋

 芳美に持たせてもらった羊羹を手にさげ、来た道を辿り、龍崎のマンションの最寄り駅に戻ってきた。住所がわからないので、どうやってタクシーを呼ぼうかと、駅の地図を眺めていたときのことだった。 「社長」  背後から聞き慣れた声に呼ばれ、振り返ると、そこにはスーツ姿の柴田が立っていた。 「おかえりなさいませ。長旅、お疲れ様でした」 「なんで、ここに?」 「慎也くんが"住所知らなくて駅で困ってるだろうから"と」 「慎也が……」  住所がわからないところまで、予想されていたと思うとなんだか、歯がゆい。  そういえば、龍崎に黙って出てきてしまい、あれから連絡もいれていなかった。携帯電話も持っていないのだから、当然だけれど。 「ちょっと待って、長旅って……」 「豊橋行かれたんじゃないんですか? 慎也くんが……」 「ああ、もういいよ。なんだよ、なんであいつ、そこまでわかるの!」  思わず、悔しい顔をしてしまい、柴田に笑われる。 「お送りしますよ」 「でも、おまえは僕の運転手じゃないだろ」 「仕事の帰りです。プライベートで友人が送ってくれるってことにしましょう」 「友人、ねぇ」 「さ、すぐそばに停めてありますので」  いつもとは違い、柴田は自分の真横を歩いた。 「豊橋の皆様は、お変わりありませんでしたか?」 「ああ、あいかわらず元気だった。柴田は、確か豊橋出身だったよな?」 「ええ、寅よし羊羹へはよく行きました。父に会いに」 「え?」 「私の父も、あそこで修行していたんです」 「そうなのか!」  会ったことがなかった兄弟子というのは、柴田の父だったらしい。  そういえば、柴田の父は豊橋工場の工場長だった。寅よし羊羹で修行をした上で、寅山羊羹のために働いてくれていたなら、まるで自分のようだと親近感が湧く。 「それよりお元気そうで、安心しました」 「ああ、龍崎の家で、かなり自由にやらせてもらってる」 「そのようですね」  すぐ目の前に黒塗りの車があった。いつもの柴田の車だ。  慣れた手つきで、後部座席のドアを開けてくれる。さきほど友人だと言ったくせに、結局いつもと変わらないじゃないか、と顔が緩んでしまう。 「社長、お乗りになる前に、お伝えしたいことがあります」 「なんだ?」  柴田は、穏やかに微笑んでいる。 「あの日、お出かけにならないでくださいとお願いしたのに、別宅に行ってしまいましたね」  柴田のいうあの日とは、警察が家に来た日のことだろう。たしかに、あの夜、柴田には外出を控えるように言われていた。それでも頭に血が昇っていた自分は別宅へ向かってしまったのだ。 「すまない……忠告してくれていたのに」 「ええ、私から言えるのはそれくらいでしたから」 「それ、くらい?」 「私なんです」 「何が?」 「あの日、社長が別宅で未成年を連れ込んでいると通報したのは、私です」  その言葉は、聞き間違えたんだと、思いたかった。 「そんな私の運転する車、乗りますか? 乗りませんか?」  微笑みながら、柴田は聞いてくる。これは、あのときに似ている。あの日、訪ねてきた訪問者を招くか、招かないか、の瀬戸際。結局、寅山は扉を開け、部屋には警察が入ってきた。  柴田は味方なのか、それとも――  柴田は助手席の扉を開けたまま、まっすぐに寅山を見つめていた。  逮捕される引き金を引いたのが柴田であるなら、この先、買春の冤罪以上のことが起きるかもしれない。まだ終わってない。その可能性はゼロじゃない。  今の寅山は、気持ちの整理ができただけで、現実は何も変わっていないのだ。このまま柴田についていって、今よりも悪くなる可能性がある。本来なら、迷う場面なのだと思う。  けれど寅山の気持ちは決まっていた。 「構わない。送ってくれ」  寅山はそのまま助手席に乗り込む。それを見た柴田は、慌てて運転席にまわり、車のエンジンをかけ、そのまま走り出した。  二人はしばらく黙っていたが、沈黙を破ったのは柴田だった。 「即決だったのは意外でした」 「そうかな」 「豊橋で覚悟を決められたのですか?」 「確かに、それもあるかもね。でも、やっぱり柴田は柴田だから」  寅山は、まっすぐ正面を向いたまま、頬を緩ませた。 「それはどういう意味ですか」 「僕はね、君以上に、自分の信念を貫いている人間を見たことがない」 「そうでしょうか」 「君は父親のために、僕を誘拐することに加担したほどの人間だ。目的のために手段を選ばない」  柴田は黙っていた。 「それでも僕がこの車に乗ったのは、この先何が待っていようとも、僕と君は根底で繋がっているとわかっているからだ。お互い、寅山羊羮の不利益になることはしない。だから、通報したのが君だって、別にいい。誰の指示かは、予想がついている。でも君の父親をあんな風にしたとされる黒幕の言うことを聞くなんて、その先の将来を見据えているからだ。違うか?」  横を見ると、まっすぐ前をむいたままハンドルを握りしめ、涙を流している柴田がいた。  彼は彼なりに、考えるところがあったのだと思う。 「俺……子供の頃、父と同じ羊羹職人になりたかったんです」 「え?」  それは初耳だった。 「大人になったら、寅よし羊羹で父と一緒に働くことを夢見てました。けれど、父が働き始めたのは、寅山羊羮でした。工場に勤めだして、すぐに工場長まで登り詰めたのに、支社長が無理な融資を繰り返したせいで 東海支社全体が赤字になり、支社の幹部でもあった父は、なれないスーツを着て必死になって銀行を駆けずり回り、なんとかしようとしていました。それを見た子供だった俺は、羊羹を作らないで何をしてるんだと父に酷い言葉をぶつけ、父と話すことがなくなりました。羊羹とは関係ない紡績会社に就職が決まったころ、豊橋工場で異物混入騒ぎがあって閉鎖することになり、そのとき父が羊羮を守るために、苦労していたことを知りました」 「それで……」 「父は羊羹を捨てたわけじゃなかった。それなのに、あんなに必死に働いていた父親を切り離した会社が許せなかった」 「当時の社長に工場の閉鎖を撤回させるため、僕を誘拐するという作戦に……?」  柴田はまっすぐ前を向きながら頷いた。その目に涙があふれていた。  龍崎は『柴田さんはこいつに甘い』と呆れた顔をするが、柴田が自分に甘い理由はわかっている。あのとき、男たちに犯されていく自分を見ていることしかできなかったことを柴田は悔やんでいるのだと思う。自分がこんな体になったのも、少なからず責任の一端があると考えているのかもしれない。 「柴田さん」  あえて、こう呼んだのは、初めて会ったときに柴田をこう呼んだからだ。 「僕は約束する。あなたのお父様である柴田工場長が守ろうとした羊羹を、僕は守ります。だからここから先は僕に任せてくれませんか」 「社……喜之…助くん」 「今までずっとふらふらしていて、ごめんなさい。社長としての覚悟が僕には足らなかった。みんなの気持ちをもっと知るべきだった」  運転席から、再びぐすぐすと啜り泣く声が聞こえる。 「うちの場合、社長の解任は株主総会で承認されないと受理されないはずです。それなら僕はまだ社長です。もう好き勝手にはさせません」 「ありがとう……ございます」 「だからもう少しだけ、僕の面倒をみてくれませんか」 「面倒だなんて」 「僕、世間知らずのボンボンなんで?」  そう、肩を竦めてみせると、柴田は笑った。 「お任せください」 「ねぇちょっとくらいは、世間知らずを否定してよ」 「あ……そうでしたね」  ふふふ、と柴田はいつものように穏やかに笑った。  いつもは後部座席にすわっているので、助手席から見る柴田の顔は新鮮だった。自分よりも5つほど年上の柴田は、だいぶ年をとった。あれから今に至るまで自分の世話役をし、運転手をし、ずっとそばにいた。  もうこれで終わりにしたい。柴田を開放させてあげたい。 ――僕の守りたいものの中に、柴田はいるのだ。あのときから。 「着きました」  車は、龍崎のマンションの前に着いていた。どこにも寄ることなく、まっすぐここに着いたということは、柴田は特に指示を受けていたり、寅山をどうにかしようとしていたわけではなかったらしい。急に進路変更したということでもなさそうだった。 「すみませんが、後部座席にある封筒を取ってもらえませんか?」 「封筒?」  助手席から後ろを覗き込むと、マチのついた厚めの茶封筒が後部座席に置いてあった。寅山が手を伸ばして、その封筒を持ち上げると中はずっしりと重かった。 「これは?」 「父の遺品の中にあった書類と、あと、寅山常務の身辺調査とその記録です」 「伯父さんの……」  寅山は封筒を両手に持った。柴田の父親の遺品ということは、当時の資料も含め、おそらくこの封筒の中には、あまり表に出せないようなものが入っていることだろう。 「ここにあるのが、私が知っているすべてです」  封筒はずっしりと重く感じた。  最初に『私の運転する車、乗りますか? 乗りませんか?』と、寅山に聞いたのは、柴田にとって賭けだったのかもしれない。今、これを柴田が寅山に渡すということは、柴田の中でひとつの答えが出たのだろう。 「わかった。これは僕が預かろう。でも、出来れば、僕は伯父さん……常務とちゃんと話をつけたいと思っている」 「ええ、もちろんです。社長におまかせします」 「じゃ、龍崎に挨拶してくる。ここで待っててほしい」 「え?」  驚いた顏のままの柴田に、寅山は、車を降りて小さく手を振り、そのままマンションに向かった。 ***  今、寅山の右手には柴田から預かった封筒を抱え、左手には、芳美から預かった寅よしの羊羹の入った手提げ袋を持っている。ごく自然に龍崎のことが頭に浮び、芳美に「食べさせたいやつがいるから、羊羹を一本ください」と頼んだ。寅よしの羊羹は、百貨店では買えないから、きっと龍崎は喜ぶだろうと。  オートロックのキー番号『1051』を押す。ここに来たときに、龍崎がのぞいていたメールボックスに書かれた部屋番号だけは覚えていたのだ。  インターフォンが鳴り止み、カメラに向かって一礼すると、解錠音がした。寅山の姿はカメラに映っていて、龍崎も確認できたはずだが言葉はなかった。 ――怒らせた、かな。  思えば、龍崎のいない間に、勝手に出て行って、連絡もしていない。連絡もせずに出ていこうと、いつもの龍崎なら、寅山に執着することなく『好きにすればいい』と言うのが想像できる。  でも、今はいつもと状況が違う。すべてを失ってつらいときそばにいてくれて、嫌なことを忘れさせるために、何度も何度も抱いてくれた。いつも、自分が望んだ、乱暴にただ快楽だけを追求したセックスとは違って、甘く優しく、心までが溶かされるような満たされたセックスだった。あんなセックス、誰ともしたことがない。  自分のために、そんな特別な時間を過ごしてくれた相手に連絡ひとつせず、勝手に心の整理をつけてきて、何食わぬ顔して帰ってきた自分を龍崎はどんな風に迎えるのだろう。  そんな思案をしているうちにエレベータは到着し、龍崎の部屋へ向かう。部屋に入ることに一瞬躊躇したが、意を決してドアノブを握ると、その扉の鍵は開いていた。  扉を開けると、玄関には紙袋が置いてあった。しゃがんで中身をみると、そこにはこの部屋に来たときに着ていた着物と、携帯電話、財布などが詰められていた。  部屋の中ではなく、玄関に置かれていることに、寅山の心に影が差した。今朝までこの部屋で寝泊まりしていた自分が、今は追い出されてしまったような気持ちになる。  ひとまず靴を脱いで、中に入る。リビングには明かりがついていた。気づけば、もう外は暗い。たしか、駅に着いた時点で夜の八時をまわっていたのだった。  扉を開けると、朝見かけた部屋着のまま、龍崎が膝にノートパソコンを抱え、ソファに座っていた。 「ただいま」  やっとの小さな声だったが、龍崎の耳には届いたと思う。それでも、ノートパソコンの画面に向かっている龍崎は、こちらを見ることもなく、その声にも応えてくれなかった。  目の前にいる龍崎と、今朝までの優しかった龍崎とはまるで別人のようだ。頬を寄せれば頭をなでてくれ、体を擦り寄せれば腕の中にとじこめてくれた、あの龍崎はもういない。また同じように迎えてくれるかもしれないだなんて、甘すぎた。もう二度とあの龍崎には会えない。 羊羹一つを土産に持ってきたところで、あの優しさを捨てて、この部屋から外へ出たのは自分の意志だ。 ――それなら、もう甘えるわけにはいかない。 「勝手に出ていったことは謝る。連絡もしないで、ごめん」  寅山が頭を下げて、顔をあげても、龍崎はあいかわらず画面を見つめたままだった。 「今までありがとう。慎也にたくさん助けてもらっちゃった。でも、もう大丈夫だから。これからは一人で頑張ってみる」  なんとか笑顔を作ろうとするが、顔がこわばってしまう。愛想笑いは得意だったはずなのに、どうしてだろう、今はこんなにも笑えない。  龍崎は、机に置いてあった白い封筒らしきものを手にとり、寅山のほうになげた。ぱさ、と音を立てて、寅山の足元にそれは落ちた。 「何、これ……」  足元の封筒を拾うと、特に何も書いていないが、ただ口がしっかりと糊で貼られていた。 「どうしてもヤバイと思ったらそれを開けて、あいつの前で読め」 「え……」  聞かずともわかる。あいつというのは、伯父のことだ。龍崎には、今、寅山が何を考え、何をやろうとしているのか、全部わかっているのだろう。今日だって、この家を出て豊橋に行ったこともわかっていた。おそらく、ここに戻ってくるだろうことも。  そして戻ってくるのに、住所がわからないだろうことまで、見透かされていて、柴田を駅に向かわせた。 「もうおまえにはそんなもの必要ないと思うけどな」   ようやく龍崎が、こっちを向いてくれた。その顔は傲慢で意地悪を言ういつもの表情よりも、少しだけ柔らかかった。 あのさ、と言いかけて口を開けた瞬間だった。 「行けよ。柴田さん待たせてるんだろ」 「あ……うん」  そこまでお見通しなのか、とため息をつく。けれど、虚脱感にとらわれている寅山の今の心まで、龍崎は知っているのだろうか。社長としての責務を全うしようと決めた。龍崎に頼らず一人で頑張ると決めた。それなのに、今の龍崎の前では、心が揺れる。  いっそ、何もかも捨てて、また龍崎の胸に飛び込めたなら、この心は満たされるのか。 ――いや、違う。  今の龍崎は、きっと寅山を迎えてはくれない。目の前にいるはずなのに、こんなにも龍崎が遠い。 「じゃあ、行くね。あ、羊羹もらったから置いてく」  キッチンのダイニングに向かい、テーブルに紙袋を置こうとしたときだった。テーブルの上に、ラップで包んだオムライスが鎮座していた。 『慎也ってさ、なんでも作れるの?』 『どうだろうな、あ、あれは作ったことねーわ。オムライス』 『え、そうなの? 作ってよ。美味しくなかったら、笑うけど』 『はぁ? なんだよ、それ。まぁ、そのうちな』 『じゃあ、僕、ケチャップでハート書いてあげる』 『アホか。どこのメイドカフェだよ』  そして、目の前のオムライスには、ケチャップがかかっていなかった。龍崎は、自分が最後にハートを書き入れるはずだった、オムライスを作ってくれていたのだ。いつか帰ってくるだろう、自分のために――  紙袋を置き、寅山はそのまま玄関まで早足で向かった。龍崎の顔なんて見れるはずがなかった。置いてあった紙袋をひっつかんで、龍崎の部屋を出て、走るようにしてエレベータの下ボタンを押す。一刻も早く、ここから離れたかった。追いかけてくるはずなんてない。でも、今は、とにかく龍崎から離れたかった。  ようやく乗り込んだエレベータの、鏡に映った自分の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。 「僕は……バカだ。バカ、本当に、バカだ」  唇を噛み締めて、そうつぶやくしかなかった。本当は一人で不安で、心配した龍崎が手を差し伸べてくれるかもしれないなんて、知らずのうちに期待していた。きっと龍崎も、そのつもりだったのかもしれない。『これからは一人で頑張ってみる』という自分の言葉は、龍崎を遠ざけてしまった。  まるで、あんなにも自分に尽くしてくれた人を必要がなくなったから遠ざけたみたいに。あの胸に飛び込めばよかった。きっとまだ間に合った。  せっかく近付いた龍崎との距離が―― 「せっかく……?」  マンションから出ると、柴田は車の前で待っていた。そして寅山と目が合うと、慌ててこちらに向かって走ってきた。 「喜之助くん? どうしたの……慎也くんと何かあった?」 「何もない。何もないよ」 「じゃあ、なんでそんなに泣いてるの」  寅山は手の甲で涙を拭った。いい年をした男が、何を泣いているんだか、と急に恥ずかしくなる。けれど、あとからあとから涙はこぼれてくる。 「柴田、さん……」 「はい」 「僕、気づいてしまっ……て」 「何を?」 「僕は、慎也のことが、好きみたい……です」  最初は、この気持ちがなんなのか、わからなかった。誰よりも、なくしたくない。離れたくない。触れていたい。繋がっていたい。そばにいてくれて当たり前だったから、気づかなかった。いざこうして、距離を感じてしまうと、胸が苦しい。  こういう気持ちが、人を好きになることだって、誰も教えてくれなかった。 「慎也なんか……いつも生意気だし、性格悪いし、恋人にしたら最悪だって、付き合ってきた相手に同情してたのに」 「ひどい、言われようだね……」  柴田も思わず、吹き出したようだ。 「でも、僕には甘くて、優しいんです。それなのに、僕は――」  柴田は寅山の肩をそっと抱いてくれた。 「慎也くんとのことは、いろんなことが片付いてから、考えましょう」 「その頃には、もう遅いかもしれない」 「大丈夫です。今はその気持ちを大切にしまっておいて、いつか慎也くんに伝えましょう」 「38歳にもなって……バカみたい……」 「年なんて関係ないですよ。さ、今日のところはおうちに帰りましょう」  まるで子供をあやすかのように、柴田は寅山を優しく車に乗せた。  寅山喜之助、38歳。社長として決意した日であり、恋を知った夜だった。

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