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20:過去との決別

 自室の鏡の前で、着物姿の自分を映す。今日は、初代から譲り受けた着物にした。この着物は大島紡の一級品で、社長就任の日も袖を通している、特別な日のための着物だ。  今日は、株主総会の日だった。  あれから龍崎の家を出て自宅に戻ったが、記者がいるわけでもなく、住宅街に佇む、ひっそりとしたいつもの我が家だった。家の留守を預かっていた家政婦たちは、寅山が釈放されて以来、龍崎の家に身を寄せていたことも知っていたらしく、温かく迎えてくれた。  自宅に帰ってから今日に至るまで、寅山は会社の一階にある店舗に毎日通っていた。大手百貨店などから、自主回収していても、店舗は営業していて、羊羮は購入できる。自分のせいで、店舗に客が来なくなっていたらどうしようと思っていたが、いつもと代わりなく、むしろ通常よりも店に訪れる客が多いように感じた。店舗担当に、品だしから販売まで、なんでもやるから店を手伝わせてほしいと名乗り出たときには、店舗で働く社員やバイトも最初は驚いていたし、謙遜していた。けれど、社長という身分でありながら、同じか、むしろ率先して働こうとする寅山をすぐに受け入れてくれた。店舗に出ることを選んだのは、少しでも自分が表に立つことで、非難や苦情を引き受けることができるのではないかと考えたからだったが、予想以上に、客は寅山に優しかった。後ろ指を指され、寅山羊羮の看板を傷つけたと、の罵られることも覚悟していたが自負していたのに、「頑張ってね」「またデパートで買いたいからお願いします」など、自分を責めるどころか、優しく声をかけてくれる客に心を打たれた。事件当初は、ニュースで知って自分の身を案じてくれた客が多くいたと聞き、寅山の心はさらに痛んだ。  実際、寅山が店舗に入っているという知らせは、会社にも届いたようで、社員が様子を見に来たこともあった。そのたびに、寅山は「心配をかけて申し訳ない」と一人一人に謝った。彼らは、寅山を責めるためではなく、心配して来てくれた社員がほとんどだった。そのたびに寅山は、心から社員に感謝した。  寅山は、会社に来るなと止められていたわけではなかった。けれど、社長代行として、常務が動いている中、戻ってきたからといって、留守を預かってくれた人間に対して、その座を退けだなんて、言えない。それに、自分が釈放されたことは耳に入っているはずなのに、役員連中からは何も連絡がない。唯一、品質管理部長である増田が、店舗まで訪ねてきて、そこで一緒に昼飯を食べにいったついでに、現状を教えてくれた。 『寅山常務は、株主総会で現社長解任の決を採り、留学から戻ってきた自分の息子を次期社長に推薦する』と。  そのときふと、以前、龍崎が言っていたことを思い出した。 ――『そいつ、おまえを失脚させる何かを持っているんじゃないか』  もし、龍崎が言うように、自分を失脚させる何かが、寅山が買春で逮捕されたことに始まり、その後、過剰な報道、看板を傷つけたことのお詫び広告、製品を自主回収、一連の流れがすべて計画だったとすると、社長解任までのお膳立てはできたことになる。  柴田から預かった封筒は確認した。その中身は表に出ていない悪事や、裏帳簿の存在に至るまで、寅山喜郎の業績は目に痛かった。資料は、柴田一人で集めたものではなさそうだった。これは、はっきりいって内部告発に近いものだと思う。それでも今の役員が、彼に従う理由は、その先を約束されているからだろうか? 彼の息子が社長になった暁に、今の役員に対して今のままのポジションや厚待遇を約束されたとしたら、それは、魅力的なものだと思う。ただ寅山喜郎のいいなりになっていれば、火の粉がかかることなく、自分の身は安泰なのだから。  できることなら、この封筒の中身について、言及をしたくない。できる限り穏便に退いてもらうには、どうしたらよいのだろうと、思考を巡らせていたが、結局、寅山一人では答えは出せなかった。  寅山喜郎という男は、自分の父である寅山喜蔵の弟であるが、当初は兄を慕う弟であった。社長である兄を支え、共に、寅山羊羮を大きくしようと、真面目に働いていた時期もあった。けれど、ビジネスセンスに長けているわけでなかった弟は、徐々にその綻びが見え始めてしまう。寅山家に生まれ、羊羮も作れず、ビジネスもうまくいかない彼が任された東海支社は赤字に転落していく。その後も、兄の築いた地位と名誉を利用して、他業界とのパイプを持ち、様々な企業へ話を持ちかけているようだった。そして裏稼業の業種とも知り合いが多い。そういった懐に取り入るセンスが彼にはあるらしい。それにしても、彼を変えてしまったきっかけは、なんだったのだろう。その答えはいまだに出ていない。  柴田が常務の運転手をしている間、寅山は会社に電車で通っていた。着物姿で電車に乗ると、どうしても注目されてしまい、中には、寅山羊羮の社長であることに気づき、その場にいたもの同士で、ヒソヒソと聞こえるように囁き合う人間もいた。そんなときでも、寅山はあえて小さく頭を下げ、社会的に迷惑をかけたことをできる限り詫びようと決めていた。だからこそ、人の目につきやすい、電車通勤を選んだようなものだ。  もし、株主総会で、自分の解任が正式に受理されてしまったら、柴田は自分のもとには戻ってこないかもしれない。もともと、勝算はない。それでも揺らぐことがないのは、寅山羊羮の社長は、寅山喜之助以外にできないのだという確固たる自信が、今の自分の背中を押しているせいだろう。  そして特別な日である今日も、電車で来た。最寄り駅から歩いて、会社に着き、今まではこのまはま店舗に向かっていたが、今日は久しぶりに社屋の中に入る。受付の女性に会釈すれば、彼女たちも寅山に気づき、立ち上がって挨拶をする。おそらく彼女たちにも迷惑をかけたと思う。けれど、今の自分にできることは、この先を見据えて動くことだけだ。  出勤してきた他の社員と同様に、エレベータに乗り、最上階にある社長室へ向かう。ここに来るのは、二週間ぶりくらいだろうか。躊躇しては負けだ、とすぐにノックすると、中から「誰だ」と声がする。もう、ここは自分の場所ではなくなっているのだなと実感しつつも、扉を開ける。 「おお、喜之助じゃないか。元気していたか?」  ぼてりと突き出た腹を上等なスーツで隠した、寅山喜郎が、寅山の顔を見るなり、明るく声をかけてきた。 ――連絡ひとつ、よこさなかったくせに、よく言う。  そう思いつつも、ぐっと腹の中に気持ちを静め、愛想笑いを浮かべ、喜郎に頭を下げる。 「いろいろとご迷惑をおかけしました。留守の間、代行をしていただいたそうで」 「構わんよ。困ったときはお互い様じゃないか」 「おかげさまで、久しぶりに店舗を手伝ったり、自分を見つめ直す時間を過ごせました」 「それはよかった」  まるで親戚の子を見守るかのように穏やかに笑う姿を見て、すでに自分のことを社長と思っていないような印象だった。今日、寅山が社長でなくなることが決定とでも思っているのだろうか。ふと、応接のソファに、黙って静かに座っている青年がいるのに気づいた。 「君、もしかして、泰時くん?」 「はい。お久しぶりです、喜之助おじさん」  スーツ姿の青年は名前を呼ばれて立ち上がり、ぱぁ、と顏を明るくさせた。喜郎の息子である泰時とは、まだ泰時が中学生くらいのときに会った以来だが、その顏には子供の頃の面影があった。大人になりつつある今は、どことなく喜朗を若くさせたような顏で、二人見比べれば、親子だと思わせるが、母親似なのか、どこか柔和で優しい顔立ちをしている。 「確か、今はイギリスに留学してるんだよね?」 「はい。今年の秋に戻ってきて、春卒業見込みです」 「そうか、もうそんな年になるのか」 「泰時は、春から、幹部候補として入社させる予定だ」  さらりと喜郎が告げ、途端に息子の顔が曇った。増田から聞いていた通り、『留学から帰ってきた息子を次期社長に推薦する』という言葉通りなら、そのための入社なのだろう。 「そのことですが、常務。少しお話があります」 「話? おまえと話すことは何もないはずだが」 「泰時くん、悪いけど、少し外してくれるかな」 「はい」  泰時は、喜郎に一礼して、静かに社長室を出て行く。寅山は、その背を目で見送った。 「話は手短に頼むよ。総会が始まってしまう」 「はい。単刀直入に言います。寅山常務、申し訳ありませんが、本日の株主総会には参加しないで頂きたい」 「いきなり何を言うんだ」  はっはっは、と喜郎は高らかに笑う。 「僕がいない間に、業務の代行をしてくれたことには感謝しています。けれど、代行という割りには独断と偏見が少々過ぎますし、それに、これまでの越権行為にも、目に余るものがあります」 「それと、株主総会の欠席とどう関係があるのかね」 「聞くところによると、今日は僕の社長解任案を提出されるそうですね。次期社長に、自分の息子を推薦すると。今日は、そのために彼を留学先から呼び戻したのですか?」 「しょうがないだろう? あんな事件を起こしておいて、そのまま社長の座にいられると思っているのか」 「あの事件は冤罪でした」 「そんなことはどうでもいい。煙のないところに火は立たないんだよ。寅山羊羮の名を汚しておいて、よく、そんな口が聞けるな」  それについては否定できない。事実がどうであれ、世間を騒がせたことには変わりない。だが、そう言われても、引き下がるわけにはいかなかった。この手は使いたくないと思っていた。でも、やはりこの人に情けをかけることはない。寅山は、改めて喜郎に向き直った。 「あなたこそ、僕への口の聞き方を気をつけたほうがい。寅山喜郎常務、たった今から常務の任を解き、関連会社への出向を命じます」

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