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22:歪な愛のかたち
株主総会から、二週間過ぎた。
寅山は、柴田と一緒に、父親の病室の前にいた。本人の希望による面会謝絶とのことで家政婦や柴田以外、父は誰とも会っていないと聞く。
自分が起こした騒動も一旦、落ち着きを取り戻しつつあり、自分の口から会長に報告したいと、柴田に頼み込んだのだ。手土産代わりに、自社の水ようかんと、父の好きだった花、カサブランカを花束にして持ってきた。以前は父の誕生日になると、カサブランカの大輪が届き、会社中の花瓶を集めて飾ったものだ。
「お会いする前に、お願いがあります」
「なんだ?」
「多少不自然な会話になっても、どうか、会長に話を合わせてください」
「わかった」
以前、父は声が出なくなった。話せなくなったと聞いたことがある。それについては、こちら側が気遣えば心配ないのではないかと思う。
「それでは、どうぞ」
自分で扉を開けるように促され、寅山は個室のスライド扉を開け、奥へ進んだ。そこには介護用ベッドで背の部分が起こされた父が窓の外を眺めていた。
「お父さん」
寅山が声をかけると父はこちらを向いた。まずは深く頭を下げて、父に近づく。以前より、ふたまわり近く、体が小さくなって、顔つきもずっと老けた。これまでご無沙汰していた非礼を詫びなければ、と口を開いた瞬間だった。
「わざわざ来てくれたのですか」
父は、ぱぁ、と明るい顔になり、どうぞどうぞと置いてあるパイプ椅子を引き寄せた。
「父さん、あの」
「ありがとうございます。”お父さん”」
――お父さん。
間違いなく、父は、寅山に向かってそう呼んだ。
「私の好きな花を覚えててくれてありがとうございます」
「あの……」
「ほら、見てくれ、敦也。こんなに立派なカサブランカは久しぶりだ」
「よかったですね。それではお部屋に飾りましょうか」
そして柴田を敦也と呼んだ。柴田敦也は、確か、柴田の父親の名前だ。もしかして、自分のことを父親、すなわち先代だと思っているのだろうか。『多少不自然な会話があっても』と柴田が言った意味を、寅山は理解した。
「体の具合はどうですか?」
「元気すぎて、いつ退院できるか、毎日看護婦さんに聞いてるのに、教えてくれないんです」
「顔色もよさそうです」
「ええ、おかげさまで」
こんなに穏やかに笑う父を見たことがなかった。
どちらかというと、いつも仕事のことでいらいらしていて、すべてのことが気に入らない顔をしていた。そんな父と見合い結婚した母は『お父さんは結婚がしたかっただけで、私じゃなくてもよかった』といつも愚痴を言っていた。母の愛情はその分、子供へ、出来のいい兄へ注がれていったのを弟である寅山はずっと見てきた。いつも家庭は冷え切っていて、父の笑った顔なんて見たことがなかった。
「そういえば、水ようかんを持ってきました」
「そうか、もうそんな季節なんですね。すぐに食べてもいいですか?」
「ええ、プルトップになっているので、僕が開けますよ」
手提げから小さな缶を取り出し、プルトップを開け、一緒に持ってきた木製の匙と一緒に渡す。父は嬉しそうに、匙でひとくちすくい、口に運んだ。
「ああ、お父様の水ようかんの味がする」
「喜んでもらえてよかった」
この水ようかんは、夏が始まる前に、いつも寅山が試作を重ねて、開発部にレシピを渡している商品で、毎年人気の季節商品だ。先代の羊羹と同じ味を引き継げているのなら、安心する。
父は寅山が羊羹を作ることに対して、評価をしたことはなかった。こうして時を経て、今は、自分を息子の喜之助だと思っていないかもしれないけれど、自分が作った羊羹を褒めてもらえたのは、素直に嬉しい。
その後も、羊羹の話をひとしきりして、父は思い出したようにため息をついた。
「どうかしましたか?」
「いや、喜郎も、水ようかんが大好きだったな、と思って」
「そうでしたか」
「喜郎は元気にしてますか」
「……元気です」
実は、あれ以来、伯父からは連絡がない。総務によれば天下り先に、と用意した小豆加工会社の辞令が出る前に退職届を出したと聞いている。それについて、寅山は伯父を探すこともしなかった。伯父の意志で辞めたのなら、引き止めることはできない。
「もう喜郎と一緒に水ようかんを食べることもないかもしれません」
「そんなことは……」
「喜之助や、喜憲のことも良く思っていない」
今、目の前にいる父は、すでに子供がいる父で、先代が生きている時代の寅山社長だ。柴田敦也が生きていると思っているということは、寅山が誘拐未遂になる前、すなわち、豊橋工場がまだ存在していた頃だ。
「喜郎は、勝手に結婚を決めた私を許してくれないでしょう。」
父の寂しそうな顔を見て、龍崎から預かった伯父の手紙を思い出した。
もしかして伯父が、息子である自分に対して持っていた憎しみは、そんな愛情のもつれが発端だったのだろうか。
「あいつはどうしようもない弟ですが、私にとってはかわいい弟です。ご迷惑をおかけすると思いますが、どうか許してやって……くれ」
目の前の父が、寅山の手をとって涙を流している。言葉遣いが曖昧になっている。さきほどから、自分の父親に対しての態度ではないように感じるときもある。もしかして、記憶が交錯していて、寅山のことを実の父と思ったり、実の息子と思ったり、しているのではないだろうか。
「さ、喜蔵さん、休みましょう。今日はたくさんお話しましたね」
「すまない……」
柴田が介護ベッドのレバーをまわし、ゆっくりと背もたれを倒していく。泣き疲れたのか、父の目がゆっくりと閉じていくのを見守ってから、柴田と寅山は部屋を出た。柴田と一緒に肩を並べて歩き、そのまま病院を出る。
「驚きましたか?」
病院出た直後に、柴田に声をかけられる。
「そりゃ……まあね」
驚いていないといえば、嘘になる。でも、年齢的にそういう問題に直面してもいい年ではある。
「今月に入ってから、どんどん認知症が進んでいます。以前より声が出るようになったと思ったんですが」
「君のことは君のお父さんだと思っているのか?」
「ええ、父の柴田敦也は、社長にかわいがってもらってましたから。工場をうまく軌道にのせたら、品質管理部へ異動することも決まっていたのですが、常務……喜郎さんはそれが面白くなかったようでした」
父の信頼を受けた柴田の父親は、愛情のもつれから標的となってしまったのだろうか。複雑に絡み合いすぎて、続く言葉が出ない。
「慎也くんとは少し、話ができたようですが」
「慎也は父に会ってるのか?」
「月に一度くらいですかね。面会できないと聞いていたのを知らずに、病院に来て、ロビーでばったり会ったのがはじまりだと聞いてます。もともと、面識もあったようですし」
確かに、学生の頃、龍崎が家に遊びにきたこともあった。そのとき、何度か寅山家で食事も一緒にしている。
「そのときは筆談で話をしていたようでしたけど、話し相手になってるだけで、世間話だと慎也君は言ってましたが」
「そっか、だからか……」
これで、龍崎が、なぜあの写真と手紙を持っていたのかを理解した。
そして今日の口ぶりで、自分は誤解していたかもしれないと思った。父は伯父のことを許してほしくて、あの手紙と写真を、龍崎に託したのかもしれない。父は、弟が兄である自分への愛情を知りながらも、結婚をし、子供ができた。そのあたりから伯父は父への態度が急変したのかもしれない。
同じ会社で働きながらも、仕事を認められないことの歯がゆさから、愛情から憎しみへ変わり、その憎しみの標的はその子供である、寅山喜之助へ向けられたとしたら……。
「人を好きになるって争いを生むね」
寅山は独り言のつもりで呟いたが、柴田には聞こえていたようだった。
「争いばかりではありませんよ。人は誰かに愛されて自分を知ることがあります。自分だけでは得られない幸せもあります」
その言葉の意味は、今ならわかる気がした。
自分よりも柴田のほうがずっと大人で、憎しみも愛情もすべて知っている。だからこそ人に優しくなれる。
「僕は、まだまだ、だなぁ」
「そんなことありません。ここ最近で、社長はぐっと大人になりましたよ」
「どうせ、僕は世間知らずですよ……」
「そうかもしれません。でもみんな、あなたをほっておけないし、あなたを助けようと必死になるんです。あなたはまっすぐで純粋だから」
「まっすぐで純粋……」
いつも世間知らずなところを自分で卑下していた。けれど、こんな自分に手を差し伸べてくれる人間が多いことは、自分が一番知っている。
「社長、カサブランカの花言葉をご存知ですか?」
「花言葉? 高貴とか、そんなんだったような」
「他に、純潔無垢という意味もあります。社長にぴったりだなと思いました」
「僕、肉便器だったけど、いいのかな」
「心の話、ですよ」
「そっか」
見上げれば、外は抜けるように高い青空だった。
また病院に来ようと思った。父の好きなカサブランカの花束と、自分の手がけた羊羹を持って。
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