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第5話

「そんな言い方ないだろうよ。天くんさあ。俺が腕を掴んでなかったら今頃あんたは少なくとも擦り傷じゃ済んでいなかったはずだ」 「じゃあ撤回させてもらおう。助けてくれてありがとう。だがおめーのことは『個人的に』超・大っ嫌いだから、ついつい暴言を口走ってしまったなあ」  そうだ……神宮寺慈恩と神楽坂天(かぐらざかてん)。この世で最も最悪な関係。「混ぜるな危険」な二人なのだ。  出会えば即、喧嘩勃発。お互いスポーツ経験も格闘技経験も皆無のため腕っぷしはあり得ないほど貧弱なのに、手も足も余裕で出る。出てもたかが知れてはいるけれども。  まあ、とか言いつつも、二人とも今年で成人した立派な大人だ、流石にそんな取っ組み合いの喧嘩とまではいかないとは思うが……。 「おらっちゃれー髪色してんじゃねーよボケ!」  ……なんて少々読みが甘かったようだ。もうとっくに天が慈恩の銀髪に掴みかかっていた。 「あっいだだだ! お、俺の髪なんだから別に何色だって関係ないだろっ」  慈恩もムキになって、天のスーツをぐわっと握る。二人とも昔からどうしてか、お互いを前にすると理性を失う節があるんだよな。 「てかあんたこそ、なんでこんな時間にこんなとこほっつき歩いてるんだよ? その格好ってことは仕事帰りだよなあ? あんたって昔からそうだったな。自分の体調とか明日の予定とか顧みずに夜更かしするクセが治ってないんじゃないのか? さっさと帰って……」 「うるせー!! てめーこそ人ん家の神社で喫煙なんかすんじゃねー! 神聖な場所が穢れるだろうが!」  慈恩の足元には吸い殻が二、三本転がっていた。しかも先ほどまで慈恩が座っていた場所の近くには飲みかけのカップ酒が放置されていて、残った中身が月の光を反射してキラキラ光っている。それを視界の隅で捉えた天は、頭の中で何かが破裂したのか余計に眉間の皺を深くした。 「……はあ、お前は……呑気でいいよな。そーやってダラダラ酒飲んで煙草吸ってれば一日が過ぎてくんだからさあ……」 「あ? そんないいもんじゃないぜ」  天の鋭い眼光に慈恩の無表情が映った。  こんな言い争いはなんの結果も生まない。お互い、立場が違うのだ。辿ってきた道のりは似ているけれど、しかし中身は全く異なるものだ。  高卒で就職するという選択をした天にとっては、二浪中の慈恩が何の危機感も抱かないダラけた人間に見えるだろう。大学受験に二度も失敗した慈恩にとっては、同い年で公務員として働く天は自分の中の劣等感そのものだろう。  だけどその実、天は毎日のように上司から厳しく叱責されているし、慈恩は現実を直視できず酒や煙草に逃げている……。  隣の芝は青く見えるってやつだ。【自分に足りない部分を持っている人】は、それ以外の部分が欠けているようには見えないものだ。 「はあ? どっからどう見ても、正真正銘いいもんだろーがよ! お前なんかと違ってなあ、こっちは毎日きっちり八時間労働してんだよ!」  普段からあまり表情を変えない慈恩だが、この時ばかりは眉毛をぴくっと震わせた。 「なんだよ……いきなりマウント取んなよ、俺だってちゃんと勉強してるよ」 「はっ。でもお前予備校辞めたんだろ? 周りの熱量についてけなくなったんだろどうせ。見栄だけで大学なんか受かんねーんだよ!」  天はそう言いながら慈恩のTシャツの襟ぐりを鷲掴みにして、自分の方へ引き寄せる。だいぶ頭に血が上っているのだろう、だとしてもやりすぎだ。こんなド深夜に男二人が掴み合いの喧嘩なんて、普通にシャレにならない。しかも天に関しては、明日もいつも通り仕事じゃないか。 「見栄じゃない! 確かにきっかけはそうだったかもしれないけど、ちゃんと将来のビジョンを持って努力したんだ! お前に俺の何が解るんだよ!」  今度は慈恩が天の頭髪を毟るようにして掴む。そのまま二人は「昔と同じように」取っ組み合いの喧嘩を勃発させてしまった。年齢が成長するからといって精神年齢まで成長するとは限らないってことだ。 「うるせー! なんの情熱も持たない人間は偉そうに吠えるな!」 「だからそーやって勝手に決めつけんなって言ってんだよ!」 「決めつけじゃなくてただの事実だっつーの! 図星なだけだろ?」 「はー!? ウザい! バーカ! バーカ!」 「じゃあお前はアホ!!」  しかし、神楽坂神社の神様の前でこんなみっともない姿を晒すなんて。天のお父さんがこの光景を見たら何と苦言を呈するだろうか。  苔むした狛犬が二人を憐れむような目で見ている。いや、二人のどちらかの身体が追突してくるのを恐れているようにも見えるな。  だってその狛犬はあまりにも古びてて、台風でも来ればひとたまりもなく転がっていってしまいそうなほど脆くて、だから成人男性の身体がもしぶつかってしまったら、間違いなく……  ドンッ!!    と、鈍い音が一つ。その数秒後、石畳に石像が打ち付けられるような鋭い高音が響いた。ような、っていうか、今そのままの事象が起こったんだけど。 「……………………へ?」  と、とぼけた声を漏らしたのは、慈恩ではなく天の方だ。天は自分が力任せに押し倒した慈恩の方ではなく、それによって崩落した石像……狛犬へ駆け寄った。  血の気が引いた様子で。 「…………や、や、やば…………い…………」  何が起きたのかというと。  お互いに罵り合った末に、天は自らの髪に掴みかかる慈恩を引き離そうと、慈恩の肩を後ろへ思いっきり押したのだ。慈恩の痩身は力学の法則に従って背中側に傾き、結果、身体が狛犬に激突した。慈恩に怪我がないか心配だったが、見たところそんなに重傷ではなさそうで安心した。  重傷を負ったのは、狛犬の方だ。 「いっ……った……」  顔を顰めて後頭部を摩るのは慈恩。あのけっこう勢いよく吹っ飛んでいったような気がするんだけど、やはり霊能者の息子は不死身なのか。 「お、お、おいてめえ! 慈恩! なにやってんだよ! どうしてくれんだよ!」  自分で突き飛ばしておいて随分と理不尽な物言いの天だが、その顔は「焦り」以外の一切の感情もなかった。つまりは本気で慈恩を責め立てているわけではなく、焦った末に混乱してとりあえず追及してみた、みたいな。いやまあどっちにしてもかなり悪質ではあるけど。  十割被害者でしかない慈恩は天に鋭い眼差しを向け、 「ちょっとは俺の心配もしろよお」  と半ば呆れたように嘆息を漏らした。 「お前なんかの心配なんかしてられるか!」 「一つの文で『なんか』を二回使うな!」 「黙れ! だあ〜〜〜ま〜〜〜れ〜〜〜!!」  天は自暴自棄になった人の典型例みたいに自らの黒髪を掻きむしって、そしてやはり慈恩を睨め付けた。 「て、て、天くん、そんな怖い顔しないでくれよ」 「お前と関わるとっ……本当にロクなことが起きない! いっつもそうだ! 昔っからそうだ! なんでお前は産まれてきたんだ! 百歩譲って産まれてきたことは許してやるとして、なんでよりによって俺ん家の横に産まれてきた! どうして俺の人生に現れたんだよ! 俺は前世かどこかでお前に何か危害を加えたのか!? 俺に殺されたか!? お前の彼女奪ったか!? おい!!」  天の声が石畳に静かに反響して一瞬で風に飛ばされていく。いまだに尻もちをついたまま動かない慈恩は天の罵声に傷ついた様子も憤怒する様子も見せず、ただ窓の外から校庭を見渡すような冷静さで天を眺めていた。 「おい! シカトしてんじゃねーよ! なんとか言えよ!」 「……天くん……」 「ああ!? なんだよ!」 「う、後ろ……」  正直。僕はとっくに気が付いていた。  そりゃそうだ。もうすでに日付が変わってしまっている。こんな真夜中に男同士の罵詈雑言の飛ばし合い。さぞかし近隣住民は眠れなかったことだろう。当たり前だよ、二人とも。  慈恩が恐る恐る指差し、天が振り返った先には、懐中電灯でこちら側を照らしつつ石階段を登ってくる警察官が二人。    天はミジンコが鳴くような声で「終わった……」と呟いた。    

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