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5 おまえだったら嫌じゃない〈1〉
克博は自分も一緒にタクシーを降りると支払いをして帰してしまった。
そしていつかみたいに朔也の部屋へとついてくる。あのときはただの義理だったのに。今日は緊張で耳の奥が痛くなりながらも、ふたりでエレベータで上り、廊下を歩く。
ドアを開け、リビングの明かりをつけてから朔也は通りすがりにキッチンに引っ込んだ。冷蔵庫からペールエールの缶をふたつ出す。
「ここに泊まるつもりなんだろ。飲んだら?」
「いえ、結構です」
硬い口調で言いながら、ソファの横にお堅そうなビジネスバッグを置いた。スーツ姿で居心地悪そうに立っていると、しっかり役場のお兄さんに見える。
「なんでおまえの方が緊張してんの」
くくくと笑いながらグラスをふたつと缶をローテーブルに置き、朔也はそのまま床に敷いているラグに座った。下に腰を下ろした自分を見て、彼もソファとテーブルの間に腰を落ちつけた。テーブルの角を挟むような位置になり、朔也は缶のタブを起こした。
「顔固いよー」
「……フラれるかもって思ったら」
ぼそぼそとこぼされた予想もしなかった台詞に手が止まる。
「はああ? 俺がフラれるのならともかくなんでおまえが」
「だって他の人に助けてもらおうとするってことは、僕が頼りないからでしょう」
「あー……」
克博は思いつめたように唇を噛んでいる。違うって言っても信じるかなあ。どうしようもなく唸ってから、朔也はグラスふたつにエールを注ぎ分けた。
「頼りないわけじゃねえよ……」
「あの、嫌味じゃなくて言うんですけど、僕も他で経験してからの方がいいですか? あなたにご迷惑をかけるくらいなら他で練習を」
「ダメだ」
コン、と甲高い音をさせて缶がテーブルに戻った。そしてふたりして顔を見合わせ、朔也はため息をついて肩を落とした。あまりな自分勝手さが露呈して恥ずかしいよりも情けない。
「……悪い」
どうしようもなくて謝ると、克博はわずかに嬉しそうな表情になった。
「そうしてくれって言われたら困るところでした。でもまあ、ちょっとは僕の気持ちがわかってくれました?」
「わかったわかった十分わかった」
「本気で言ってます?」
眼差しがすうっと疑わしげになって見つめられるのに、軽薄な笑顔で答える。
彼が自分と別の相手に手ほどきを受けているとなると、さすがに胸の内が煮えそうだ。こういう感覚も久しぶりで、さらに相手に見せたくないと思ってしまう分、もう、いろいろとお手上げ状態だった。
克博はテーブルのグラスに視線を移し、取り上げてエールを一気に飲んだ。ことんとテーブルに置いてから、息をついた。
「何がトラウマだったのか聞いてもいいですか?」
美味しいメーカーのものなのに味もわからず、朔也も無言でアルコールを飲み干す。そしてまだ残っている缶をふたつに分けて注いだ。
「僕はたぶん、あなたがいろいろ知ってても知らなくても、あなたへの評価は変わらないと思います」
手元をじっと見ながら、克博は静かに言う。
「んー、まあな。おまえはそういうやつっぽいよな」
「だったら」
「そういうところで心配してるんじゃねえよ」
彼の視線が横から刺さってくる。どう言えばいいのか一瞬悩み、結局飾ることも嘘をつくこともできないように思えて、朔也は宙を睨んだ。
「あのな、昔、めっちゃ若かった時、まあ同年代に好きなやつがいて、こう、やることになったんだけど」
どうにか言葉を選んでみるけどやっぱり内容は変わらない。半ば露悪的な気分になりながら、グラスを手慰みに引き寄せた。
「それまで自分でこっそりいろいろひとりで遊んでたんだよね。相手はいなかったけど興味はあったからさ。だから初めてだったわりにはある程度経験値はあったってわけ。だけどまあ、当然、誤解されて」
「……そんな、」
「初めてだけど結構ひどくされてさあ……。そのうえ遊んでるやつとは付き合えないみたいな感じでフラれて、それから、まあ、怖くなって」
「――朔也さん」
克博の声が暗く沈むから、朔也はことさら明るい声を出した。
「とまあ、こんな感じ。あまり大したことねえけど、やっぱり好きな相手の前だとどうしてもためらってしまうってね」
「……はい」
できるだけ思い出さないようにしてるけど、たまにフラッシュバックしてしまう。
最初は痺れるような気持ち良さがあったのに、それを伝えて浸ろうとしたとたん相手が豹変して、腰を掴む指が無造作に食い込んできて、がつがつと奥まで容赦なくやられたときは死ぬかと思ったし、乱暴にされて怖くて痛くてもう無理だとも思った。
だから誰かと付き合うときはトップに徹することにした。相手をできるだけ優しく扱おうとも。
だけど彼が。
グラスをぐぐっと傾けてから、唇を歪めて笑う。
「うううう、ごめんな、こういう昔の話なんて聞きたくなかっただろ」
「いえ、聞きたいと言ったのは僕ですから。それに僕こそすみません、言いたくなかったでしょうに」
克博は生真面目にかぶりを振った。
じりっと膝で寄ってくると、腕を伸ばしてきた。横から両腕で抱えるように巻かれ、抵抗しなかったらそうっと抱き寄せられた。朔也が寄り添うようにすると、ぎゅっと力が入ってきた。
こんなふうに抱きしめられるのも久しぶりだ。朔也はやんわり微笑んだ。たまにはこういうのもいい。愛しい、守りたい、と腕が言う。それに対して、守らせてやってもいい、と思うこと自体が気持ち良くて。
「なんか、聞いてると、そこまでしたいって思わなくなってきました」
ごそごそ体を入れ替えて、向かい合うように抱きしめ直してきながら、克博はつぶやくように言った。
「ええと、あなたが良ければ、僕が、ボトムやっても、もちろんなにもしなくても」
「はは、あのな」
朔也は彼の肩に顎を乗せながらかすかに笑った。彼がそう言うのわかってたからどうにかしたかったんだ。できるかどうかどうでもいいやつで試しておいて、心の準備をしておけば、パニックにならずちゃんとできると思ったから、馬鹿なことしそうになったけど。
「いいよ。わりと、大丈夫な気がしてきたから」
垂らしていた手を上げて、彼の背中をぽんぽん叩く。
「そういう問題じゃ」
「そういう問題だよ。ただおまえとなら」
「無理にトラウマを克服しようとする必要はないん――」
「あのなあそういうんじゃなくて」
朔也はふうっと息を吐いて、彼にもたれかかった。克博は焦ったように力の抜けた体を抱きしめ、力を入れた。
「っ、あ、あの、朔也さん」
あたふたとしながらも、彼はぎゅっと腰に腕を巻き締め、首筋に顔を埋めてきた。ぴったりと合わさった胸からは、心臓の激しい動悸が伝わってくる。そんなにどきどきしてて、破裂するんじゃないか。朔也はくすくす笑った。
「遠慮してるんじゃねえよ」
「違います」
「おまえなら信用できるから、ぜんぜん怖くねえって言ってんの」
「……っ、もう、ほんと……」
泣きそうなほどか細い声で嘆き、力を入れすぎで腕が震えてくる。
馬鹿だな。おまえが好きなんだよ。おまえの好きにさせてやりたいんだよ。ただそれだけなんだから、受け取ってくれよ。耳元でささやくと、克博の腕の震えが止まった。
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