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夜明けの星 2.5-1(夏樹)
《夜明けの星……おまけ ~桃色の誘惑~》
「ん?何してるの、入っておいで?」
夏樹は、玄関で立ち止まった雪夜を呼んだ。
「あ、はい……お邪魔します……」
「雪夜?違うでしょ?」
「え?」
「雪夜の家でもあるんだよ?」
「あ……えっと……た、ただいま?」
「うん、おかえり!」
「……はいっ!」
雪夜が少しほっとした顔で笑うと、ようやく靴を脱いだ――
***
「そろそろ家に戻ってみるか?」
斎にそう言われたのは一週間程前だった。
雪夜の体調も良くなってきて、精神的にも安定していたからだ。
別荘は普段と違う閉ざされた空間だ。
余計な雑音が入って来ないし、余計な物を目にすることもない。
そのせいかほとんどトラウマが出ることはなかった。
普段の生活に戻ることで、別荘では出てこなかったトラウマが出て来る可能性は十分にある。
だけど、ずっと別荘にいるわけにはいかない。
雪夜がまた元気に大学に行けるように、社会に出て行けるように、その手助けをするためにも、少しずつ普段の生活に戻って、雪夜の精神状態 を把握しておく必要がある。
ということだった。
斎の言いたいことはわかる。
夏樹も雪夜がまた以前のように普通の生活が出来るようにしてやりたいと思う。
でも、日常の中でどれだけトラウマが出て来るのかを考えると……病院での雪夜を思い出して少し返事をためらった。
不安定になっている雪夜の傍にいるのは別に苦じゃない。
いつもよりも素直に甘えてくれるし、わがままも言ってくれる。
でも、不安定になっている雪夜を見ているのはやっぱり少し辛い時がある。
不安定な時の雪夜はほとんど無表情だ。
普段の雪夜はころころ表情が変わって見ていて飽きないし、そんな雪夜といると夏樹も楽しくなる。
だから余計に……
「心配しなくても、俺も雪ちゃんの様子を見るためにお前の家にしょっちゅう顔出すし、もし雪ちゃんの状態がひどくなるようなら、また別荘に戻ってもいいんだ。とりあえず、一度家に戻って様子を見てみないか?」
「わかりました」
とは言ったものの……雪夜は場所や人に慣れるのに時間がかかる。
俺にさえ、3日以上会ってないとなかなか近寄ってくれないくらいだ。
別荘だって、慣れるのに数週間かかった。
この家に戻るのは数か月ぶり……
案の定、家に戻ると聞いた雪夜は激しく動揺していた。
今日は朝からずっとソワソワしていたし、さっきはこの家に入ることをためらっていた。
まずはこの家に慣れるところからだな……
***
部屋に入ってからも、雪夜はボーっと立ったままだった。
夏樹はあえて何も言わずに、荷物を片付け始めた。
春物のコートをハンガーにかけながら雪夜の様子を盗み見ると、恐る恐るソファーに座ってキョロキョロしながら指のリングを弄っていた。
やっぱり、昨日渡しておいて良かった。
リングには、雪夜を束縛したい執着欲と独占欲、夏樹のモノだという周囲への牽制の意味はもちろんだが、もう一つ……夏樹が傍にいない時に雪夜が不安定になった場合でも、リングが夏樹の代わりに心の支えになればという御守り的な意味もあった。
雪夜がリングを大事にしてくれているのは知っていたが、病院でうなされている時に無意識に指を触っているのを見て、思っていた以上に雪夜にとってリングが意味を持ったことに少し安心した。
病院にいる間は夏樹のリングで代用していたけれど、やっぱりサイズが合わないのですぐに指から抜け落ちてしまう。
だから、早々に新しいリングを作ることにした。
その時は、まさかあんなに長い間別荘にいることになるとは思っていなかったし、渡すまでにこんなに時間がかかるとは思っていなかった。
リングをすぐに渡さなかったのは、何でもない時に渡すと雪夜が受け取らないと思ったからだ。
リングがないことに気付いた時の雪夜は痛々しい程にショックを受けて、俺にリングを失くしたことを言い出せなくてしばらく不安定になっていた。
そんな状態の雪夜に「新しいリングだよ~」なんて渡しても、受け取る資格がない、とか言い出しかねない。
誕生日プレゼントとして渡せば、雪夜も受け取りやすいだろうと思ったので、バースデーパーティーまで渡すのを待ったのだ。
新しいリングも、ちゃんと御守り代わりになってるみたいだな。
「――雪夜、お待たせ。お昼ご飯何作ろうか……って、あれ?……寝ちゃったのか」
片付けを済ませてソファーに行くと、雪夜はソファーでクッションを抱きしめて丸まった状態で眠っていた。
環境が変わってしばらくはなかなか眠れないかもしれないと思っていたので、少し驚いた。
まぁ、昨日だいぶはしゃいでいたし……そのくせ夜はあまり眠れていなかったみたいだから、かなり疲れているはずだ。
そうだとしても、ここでひとりで眠れたってことは……ちょっと緊張が緩んだかな?
早くこの家で過ごしたこと思い出してよね……
夏樹は雪夜をベッドに運ぶと、額に口付けてそっと頬を撫でた――
***
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