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夜明けの星 4-5(雪夜)
雪夜が夏樹たちと図書館の外に出ると、心持ち雨脚が弱まっていた。
さっきまでどしゃ降りだったせいか、街灯に照らされた地面は全体的に水に覆われていたが、水深は数ミリ程度。長靴じゃなくても歩ける。
だけど……
雪夜は暗闇の中、雨つぶが落ちる度に揺れる水面を見て、足を竦ませていた……
そんなにいっぱい水が出ているわけじゃないって頭ではわかっている。
それでも……足を踏み出せばそのまま……沈んでしまうんじゃないかって……海で溺れた時の記憶がチラついて、地面に下りるのが怖い……
雪夜は海で溺れて以来、水がトラウマになっていた。
本当は風呂に入るのだって、毎回身体が震える。
でも、そのことを雪夜は必死に隠していた。
なぜなら――……
***
「橋本、ちょっと俺と雪夜の荷物持っててくれる?」
「はい!」
「雪夜、おいで」
「え?」
二人にバレないように、何でもない顔で地面に足を踏み出そうと気合を入れた瞬間、夏樹に呼ばれた。
雪夜が振り返ると、夏樹が両手を広げて待っていた。
「えっと……?」
「ん?抱っこより、おんぶがいい?俺はどっちでもいいよ?」
「え、いや、あの……」
なんで今!?ほら、じん君もびっくりしてるし!!
周囲に人はいないけど、夏樹さん外ではあまりそういうことはしないのに……
突然、夏樹が抱っこすると言い始めたので、雪夜は困惑していた。
「なんでって……だって、雪夜、歩ける?」
「え、歩いてる……よ?」
俺、歩いてるよね?ここまで普通に歩いて……
「そうじゃなくて……この中を」
夏樹はそう言って水に覆われた暗い地面を指差した。
「あっ……あの……」
一瞬ギクリとなって夏樹から顔を逸らした。
え、なんでそんなこと聞くの……?
もしかして夏樹さん……
「水怖いんでしょ?」
「え、どうしてそれを……!?」
だって俺、水が怖いなんて……夏樹さんにも佐々木たちにも一言も言ってないのに……
「……あのねぇ……それくらい俺が気づかないわけないでしょ?ずっと一緒にいるんだから」
ちょっと呆れ顔の夏樹が、雪夜の額を指でツンツンと押してきた。
「じゃぁ、もしかして、だいぶ前から気づいてたんですか……?」
「当然。でも雪夜は気づかれたくなさそうだったから、俺もあえて言わなかっただけ」
「……そうなんだ……」
「だけどね雪夜、いい加減俺に頼ってくれてもいいんじゃない?あんなことがあったんだから、水が怖いっていうのは当たり前だし、今更俺に隠す必要ないでしょ?」
「だって……あの……」
水が怖いなんて言ったら夏樹さんが……
「あの事故に関しては、傍にいたくせにちゃんと守れなかった俺が悪いんだよ。雪夜は何も悪くないんだから……」
「違うっ!そうじゃなくて……夏樹さんがそうやって自分を責めるんじゃないかって……それで……」
雪夜の勢いに夏樹がちょっと驚いた顔をした。
今まで一生懸命隠していたけど、隠していたつもりだったけれど……
気付かれていたのなら、隠していた理由をちゃんと話しておかないと……
「俺のために……水が怖いって言えなかったの?俺が自分を責めないようにって……?」
夏樹が、微妙な顔で雪夜を見た。
「そう……だけど……ううん、でも違うの!……ホントは……あの……夏樹さんが自分を責めちゃって、そのまま『だから俺とは一緒に居ない方がいい』って、言い出すんじゃないかって……俺から離れちゃうかもしれないって、そう思うと……怖くて言えなくて……だから、全部自分のため!俺のためだったの!!」
雪夜は、口下手なりに自分の気持ちを伝えようと必死に言葉を紡いだ。
水が怖いのを黙っていたのは、結局は……自分のためだ。
夏樹さんが俺から離れていかないように……
「あ~……なるほど。そっか……」
「……ごめんなさい……」
「うん、わかった。じゃあ、帰ろうか」
「え?」
「傘持つならおんぶの方がいいかな、はい、おいで」
こんな自分勝手な理由、怒られても仕方がないと思っていたのに……
そんな雪夜に対して、夏樹は何事もなかったかのように、雪夜の前にしゃがみ込んだ。
「え、ええ?あの、夏樹さん!?今の話聞いてました!?」
「聞いてたよ。心配しなくても俺耳もいいから。ほらほら、早くしないと誰か来ちゃうよ?」
「え、あ、はい……」
夏樹に抱っこしてもらうことはよくあるが、おんぶは……雪夜が覚えてる限りでは初めて……だと思う。
自分から夏樹の背中に抱きついていくのはちょっと恥ずかしかったが、夏樹に急かされて慌てて背中にしがみついた。
「傘、自分が濡れないようにちゃんと持っててね」
「でも、夏樹さんが濡れちゃうじゃないですか」
「あぁ、俺はもうここに来るまでに濡れちゃってるから大丈夫だよ」
雪夜をおんぶする夏樹が爽やかに笑った。
***
「夏樹さん……ごめんなさい……」
雪夜をおんぶした夏樹と、荷物を持った橋本が、小雨の中を急ぎ足で歩いていく。
夏樹の大きな背中で温もりを感じながら、結局夏樹に迷惑をかけている自分が情けなくて、申し訳なくて……思わず謝っていた。
「雪夜、そこは『ありがとう』とか『大好き』とかの方が俺的には嬉しいんだけどな~?」
「ええ!?」
「ははは……あのね雪夜、雪夜にトラウマが出来ていようがなかろうが、俺はあの事故は自分のせいだって思ってる。でも、心配しなくても、俺は雪夜から離れたりしないよ。離したりしない。雪夜が思ってる以上に、俺は雪夜がいないとダメなんだよ。自分勝手なのは、俺の方だ……だから……雪夜はもっと、俺じゃなきゃダメって言って?そしたら俺が喜ぶから」
雪夜は、ちょっと茶化して言う夏樹の背中にぎゅっとしがみついた。
おんぶだと、夏樹の表情が見えない。
でも、自分の表情も見られることはない。
夏樹さんじゃなきゃ……ダメですよ……
「大好き……だから……ずっと傍にいて……」
雪夜が呟いた想い は、雨の音にかき消されて、夏樹に届く前に闇の中に溶けていった――……
***
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