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夜明けの星 4-16(夏樹)
「雪夜は、助け出された時は微かに意識があったらしいが、病院に運ばれてから半年間、眠り続けた。そして半年後、目を覚ました雪夜は……暗闇、音、人、注射、白衣……目に入るもの、耳に聴こえて来るもの、あらゆるものに怯えて、精神的ストレスと事件のショックから自分の母親の顔もわからなくなっていた」
「周囲の人間がみんな鬼みたいに見えてたらしいよ。それも後になってわかったことだけどね。雪くんその時は声が出なくなっちゃってたから……。医師や看護師だけじゃなくて、僕たちや涼子さんでさえも、近づけなかった。誰かが少しでも近づくと怯えてしまって、出ない声を喉の奥から絞り出して奇声をあげて暴れて……大変だったんだ」
双方に危険だからと、達也たちはそれきりお見舞いに行かせて貰えなかったらしい。
「それから更に半年程して、何とか身体は元気になったからと、雪夜は一時帰宅することになった。家の方が落ち着けるかもしれないからということだったらしい……」
「医師になった今なら、その時の父たちの判断がどれだけ愚かだったのかよくわかるけれど、その時はただ、雪くんにまた会えるのが嬉しかった」
「普段は、学校が終わるとそのまま塾に行っていたんだが、その日は雪夜が帰って来るということで、私も慎也も塾をサボって早く帰宅した」
「示し合わせたわけじゃないけど、考えることは同じだったんだよね。さすが兄弟って思ったよ」
慎也が達也の言葉を遮るように、茶々を入れる。
そんな慎也の背中を、達也がまた軽く撫でた。
「……意気揚々と帰宅した私たちが見たのは……幼い雪夜に馬乗りになって首を絞めている涼子さん……雪夜の母の姿だった――」
***
達也たちは茫然と立ち尽くしたが、雪夜の手が微かに動いたのを見て、達也が急いで涼子を引きはがした。
雪夜に息があることを確認した達也が、慎也に救急車を呼ぶよう指示していると、ゆらりと立ち上がった涼子が、今度は自分の腹部に刃物を突き立てて自殺をしようとした。
救急車がくるまでの数分間、達也と慎也で必死に止血をし、二人を父の病院へ運んだ。
「あの数分間は……本当に地獄だった。雪くんの生存確認をするだけでも必死だったのに、涼子さんの自殺未遂まで……もうほんとに頭が真っ白になったよ。だから……僕はどうやって助けたのかとか、ほとんど覚えてないんだ」
「私も同じようなものだったが、幸い、父の方針で二人とも救命救急の基本は早くから何度も講習を受けていたからな。いつ何があるかわからないから覚えておいて損はないと。実際にするのは初めてだったが、考えるよりも先に反射的に身体が動いていた……」
いくら医者の息子だと言っても、その頃慎也は小学生だし、達也だってまだ中学生だ。
大人でも難しい咄嗟の救命処置をやってのけたのだから、雪夜の言うとおり、やはり二人とも優秀なのだろう。
その割には先日の雪夜の発作への対応はイマイチだったが……
あぁ、そうか。雪夜たち同様に、この二人も……
たった一年ほどの間に大切な弟妹たちの遭難、監禁事件。錯乱状態の弟。その上、心中未遂や自殺未遂の現場を目撃してしまったのだ……まだ子どもの二人にはあまりにも酷な経験だ。
トラウマとして残っていたとしてもおかしくない。
雪夜の発作を見て、その時の光景がフラッシュバックしてしまったのかもしれないな。
医師としては致命的な気がするが、この二人の場合は雪夜が引き金なのだろう。
医師になってから会うのは初めてだと言っていたので、もしかしたらあの時、雪夜の発作でパニクったことに一番驚いているのは本人たちかもしれない。
それでも……この二人のおかげで、心中も自殺も未遂に終わって、雪夜が今元気に生きているんだ……
夏樹は、当時の達也たちに心の中で感謝しつつ、続きを促した。
「涼子さんのしたことは衝撃だったが、涼子さんの異変に気付かなかった私たちも悪かったんだ。涼子さんは、私たちの前では心配をかけないようにいつも笑顔で『大丈夫、雪夜はきっとすぐに良くなる。早くお兄ちゃんたちに会いたいって言うわよ』と言ってくれていた。雪夜と心中しようとするほど精神的に追いつめられていたなんて、微塵も感じさせなかったんだ」
「涼子さんはね、ホントに素敵なお母さんなんだよ。雪くんだけじゃなくて、僕たちのことも本当の息子みたいに大事にしてくれて……僕たちも本当のお母さんみたいに思ってた。その涼子さんが……泣いてたんだよ。泣きながら雪くんの首を絞めてた……」
達也たちの処置のおかげで何とか一命はとりとめたものの、二人ともその出来事で完全に精神が崩壊し、精神病院に入らざるをえなくなった。
「普通の病院とは違うので、そこには私たちは立ち入ることが出来なかった。病院がある場所も、山奥で気軽にお見舞いに行けるような場所ではなかったしな。だから、そこでの約4年間、雪夜がどんな風に暮らしていたのかはわからないし、雪夜の記憶を書き換えた方法についても知らされていない。ただ……雪夜は精神病院でもしょっちゅうパニックになって暴れていたので、自分自身を傷つけてしまわないようにとほとんどベッドに拘束されて過ごしていたようだ」
記憶を書き換えられて退院した後、帰宅して自分の部屋に入った雪夜の口から出たのは「このベッドはどこに拘束具をつけるの?」だった。
「記憶は一気に書き換えられるわけじゃないし、完全じゃない。それに雪夜には多数のトラウマが残っていた。特に夜は……病院では夜も灯りをつけて、真っ白い壁に囲まれた部屋にいたらしいが、それでもたまにパニックを起こしていたので、退院する直前まで拘束されていたらしい」
以前、夏樹が、「雪夜をベッドに縛り付けておくつもりか」と言った時に達也が動揺したのはこのことがあったからだ。
「僕たちは雪くんを拘束したりなんかしたくなかったから、夜も怖くないように灯りをつけて、三人で寝てたんだよね」
「雪夜は退院してからも、数か月に一度病院に通って、記憶を書き換えにいっていた。そうすることで徐々にトラウマの数を減らしていって、大学入学前には何とか灯りをつけていれば一人でも眠れるようになったんだ」
ん?大学入学前?
「途中ですが、ひとつ聞いていいですか?」
「なんだ?」
「今の雪夜が覚えている記憶の中で、雪夜自身の記憶は何歳からなんですか?」
「……部分的には中学生。どこも弄られてない完全な雪くんオリジナルの記憶は高校……いや、大学からだよ」
「じゃあ、大学入学前までお母さんも一緒に暮らしてたっていうのは……?」
「あぁ……それか……まぁ、一言で言えば、幻覚だ」
「……え?」
幻覚……?
思いもよらない答えに、夏樹も斎たちも思わず固まった――……
***
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