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夜明けの星 4-17(夏樹)

「涼子さん……雪夜の母親は、あれ以来、精神病院に入院したままだ」 「ずっと……ですか?」 「うん……雪くんはね、あの時正気に戻ってたんだ。一瞬だけどね」 「あの時?」 「涼子さんに首を絞められた時。僕たちが助けに入った後、雪くんは声が出せないのに、呼気音だけで、ごめんなさいってずっと謝ってた」  雪夜は最悪のタイミングで正気に戻ってしまったということか……  実の姉に崖から突き落とされて、実の母には首を絞められた。  雪夜は最愛の人たちに殺意を向けられて、それらをすべて自分のせいだと思い込んでしまった。  だから完全に精神(こころ)が壊れたんだ…… 「幼児の細い首なんて、大人が本気で絞めれば一瞬で息の根を止められる。それなのに、雪夜は生きていた。おそらく、涼子さんも、雪夜が正気に戻ったことに気がついたんだろう。だから、首を絞める力を緩めた――」  誰にも相談できずに一人で悩んで悩んで……静かに壊れていった涼子。  雪夜が正気に戻った瞬間、涼子も正気に戻ったのだろう。  自分がしようとしていたことの重大さに気付いて、それで…… 「涼子さんは精神病院に入院してからも、暴れることも喚くこともなく、ただひたすらに自分を責め続けた。……そして涼子さんは、自分自身で記憶を操作したんだ」 「自分自身で?」 「うん、つらい経験をした人が、自己防衛のためにつらい記憶を自分自身で封印したり、切り離したりすることはよくあることだよ。涼子さんはそういった方法で、娘の存在を完全に消したんだ。自分に娘はいなかった。自分の子どもはずっと雪くんだけだ。ってね……」  つまり、キャンプも全てなかったことになった。  それどころか、涼子の中では、いまだに雪夜は二歳のままで、今は体調を崩して入院していると思っているらしい。  雪夜に会いに行きたいと言うこともあるが、涼子の中では時間が止まっているので、永遠の一日を繰り返し過ごしているような状態なのだとか。 「雪夜にしても、姉の存在をどうするかがネックだったから、涼子さんが自分の記憶から消したことで、雪夜からも姉の存在を消すことにしたらしい……そこで、キャンプの記憶を大幅に書き換えるために、僕たちはキャンプに行かなかったことにして、父親も、亡くなっているはずの実父がまだ生きていることにして――……そうやって、嘘で塗り固められた新しい記憶、きみが聞いたという雪夜の記憶が出来上がったというわけだ」 「なるほど……キャンプの記憶が書き換えられた理由と、雪夜の母親が今も入院していることはわかりました。で、雪夜が母親の幻覚を見ているというのは?」  全面的に雪夜の記憶を書き換えているくせに、雪夜が母親の幻覚を見ていたというのは何だかおかしくないか?  母親がいないという記憶を、いたということに書き換えたというならまだわかるが…… *** 「雪くんのように強いストレスを感じた場合の自己防衛として、幻覚を見る場合があるんだ。涼子さんが自分の記憶から娘の記憶を消したのと同じようなものだよ――」  雪夜の中では、母親の件は監禁事件の内容よりも印象が強すぎてなかなかうまく書き換えられなかったらしい。  雪夜が最後に見た母親は、泣きながら自分の首を絞めようとしている姿だ。  姉の存在や事件の記憶がどんどん書き換えられていくにつれて、母親がなぜそんな行動を取ったのかわからなくなっていく。  そこで雪夜は、優しかった母親の幻を作り出し、自分の記憶にある、泣きながら首を絞めようとしていた母親の姿は、ただの悪夢だったのだと思い込んだ。  そうすることで、無意識に自分の精神のバランスを取ろうとしたのだ。 「雪夜は退院してからも、家ではずっと涼子さんの幻覚を見ていた。家の中のことは家政婦がしてくれていたのだが、雪夜はそれを涼子さんがしていると信じていた。私たちも、そんな雪夜に調子を合わせて、涼子さんがいるかのように振る舞っていたんだ」 「雪くんがそれで安定しているなら、無理に正気に戻すこともないだろうってね……だって、本当の涼子さんは病院だし、涼子さんの中では雪くんはまだ二歳だから、今の雪くんが会いに行っても、息子だとは認識できない。それなら、雪くんをちゃんと見てくれて笑いかけてくれる幻の方が……――」 「そうですね……」  慎也の言葉はもっともだ。  母親の幻覚を見るのが自己防衛なのだとすれば、現在の涼子の状態を知ることは、雪夜にとってプラスになるとは思えない。   「それで、話を戻すが、雪夜は退院した後――……」  達也たちは、夏樹たちが納得したのを確認すると、気を取り直すように軽く咳払いをし、それまでよりも少し表情を緩めた――   ***

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