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夜明けの星 4-18(夏樹)

 雪夜は退院してしばらくは、普通の暮らしに戸惑っていた。  なんせ、ほとんど拘束されていたせいで、全身の筋力や体力が低下し、ただ歩くだけでも大変だったし、トイレやお風呂も介護がなければできない状態だった。  記憶の書き換えと兄たちのサポートのおかげで何とか克服することができたが、全て一から教えて行かなければいけなかったのだとか。    当たり前の日常生活が、当たり前じゃなかった雪夜にとっては、いくら記憶を書き換えたとしても実際に生活することは大変だったのだろうと思う。  そしてそれをサポートしていた兄たちも…… 「逆に、書き換えられているせいで、雪夜自身は出来る、知っているなのに、なぜか思うように出来ないという状況に困惑して、パニックになってしまうことが多々あった。その上、私たちは、雪夜がどんな状態で暮らしていたのか、どんな記憶と書き換えているのか等を知らされていなかったんだ。だから、何をどこまでサポートすればいいのかわからず、会話にも気を使ったものだ。全て手探り状態だった」  何も知らされていない状態で、当時高校生だった二人が雪夜の面倒を見ていたということか。  いや、そんなの無理だろ!? 「まぁ、さすがに無理だってことで、父に詰め寄って必要な情報は貰ったけどね。でも、そんな苦労なんて、雪くんの苦労に比べればどうってことないし、何より……雪くんがまた笑ってくれるようになった……それが嘘の記憶のおかげでも……雪くんの中には二歳の頃に出会った時の、僕らとの思い出がなくなってしまっていたとしても……雪くんの笑顔がまた見られるなら、もう何でもいいと思ったんだ」  慎也が少し淋しそうな顔で笑った。 「日常生活がそんな状態だったってことは……勉強はどうしていたんですか?拘束されている状態じゃ出来ませんよね?」 「それがね……僕たちもよくわからないんだけど、退院した時、雪くんはちゃんとその年齢に必要な必修科目は習得してたんだ。むしろ……理数系においては、高校生レベルだった」 「ただ、芸術方面や体育は経験していないので、全然出来なかった。後は……文字が書けなかったな。三歳の頃には自分の名前を書けていたが、どうやら入院中は鉛筆を握ることは一度もなかったらしくてな、私たちが鉛筆の持ち方や書き方を教えたんだ」  鉛筆も握ったことがないのに、必修科目を習得していた……?どういうことだ? 「雪くんが最初に書けるようになったのは、の『し』なんだよね~」 「だが、最初に書けるようになった単語は『たつにい』だった。『ん』のグニャグニャが上手く書けなくて『しんにい』はなかなか書けなかったんだよな」 「う、うるさいな!『ん』は難しいんだもの、仕方ないでしょ!――」  夏樹が考えこんでいる間に、達也と慎也が、雪夜がどっちの名前を先に書けるようになったか、というどうでもいい内容で軽く兄弟げんかを始めた。    なんというか……この二人もかなりヘビーな体験をしているわりに、明るいよなぁ…… 「はいはい、ストップ。兄弟げんかは後にしてくださーい」  夏樹は、ちょっと首を傾げた後、パンパンと手を叩いて二人の間に割って入った―― ***

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