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夜明けの星 4-23(夏樹)

「そのこと……雪夜は?」 「もちろん、知らせてはいない。雪夜にとってはあの場所はあまりいい思い出がないからな。またあの場所に戻れだなんて言おうものなら、それこそパニックになって大暴れだ。だが、あの子が大学を卒業して実家に帰って来たとしても、私は忙しくてなかなか家に帰ることができない。つまり、雪夜は誰もいない家にひとりになってしまう……」  もちろん、雪夜には母親の幻覚がみえているので、ひとりという意識はないだろう。  だが、幻覚は無害な代わりに、何もすることができないのだ。  もし、雪夜の具合が悪くなって倒れたり、不安定になってパニックになったりしたとしても、幻覚の中の母親は助けてはくれない。  だから、雪夜を家にひとり置いておくわけにはいかないのだ。  ……という隆文の主張は、一見筋が通っているように聞こえる。  が…… 「ちょっと待ってください。雪夜は大学に入ってからひとり暮らしを始めたんですよね?」 「あぁ、ひとり暮らしをするように説得をして、あの家を探したのは私だ」 「大学での四年間はひとり暮らしをさせるのに、卒業後はひとりで家に置いておけないから、また精神病院へ入れるんですか!?いや、どう考えてもおかしいだろっ!?」  雪夜を心配しているようなことを言っているが、大学での四年間、雪夜がひとり暮らしをし、家族への連絡をほとんどしていなかったことに関しては、何も心配していないのだ。  矛盾と違和感だらけの隆文の言葉に、夏樹は思わず声を荒げていた。 「……大学を卒業する頃には、少しは社会にも慣れて精神的にも成長しているだろうから、ちゃんと話して聞かせれば、雪夜も納得するだろう。それに兄たちが帰国するまでのたった数年間だ。兄たちが帰国すれば、また実家で暮らせるようになる――……」  おい、俺の話は無視かよっ!!  隆文は夏樹の非難はスルーして、マイペースに話を進めていく。  マイペースというか、人の話を聞かないというか……とにかく会話にならない!  ……隆文は夏樹のもっとも苦手とするタイプの人間のようだ。 「なぜ雪夜が実家に帰ってくると決めつけるんですか?四年間ひとり暮らしをして、家族にも頼らずにやってこれたんなら、そのまま社会に出ることも出来ます。だいたい、普通は大学を卒業すれば就職するでしょう!?」  なぜかこの父親は、雪夜は大学を卒業したらまた実家に帰って来て自分たちの庇護下(ひごか)に入ると思っている。  そう信じて疑っていないところが、何となくモヤッとするというか……薄気味悪い。    どうしてという選択肢がないんだ? 「それは無理だ。現にあの子はひとりでやっていけていないのだろう?今はきみと同棲しているらしいじゃないか」 「同棲しているのは、別に雪夜がひとりでやっていけないから、というわけではないですよ。俺と雪夜は恋人同士で、俺が雪夜ともっと一緒にいたいから、同棲しているだけです」 「だが、しょっちゅうあの子は発作を起こしたり、不安定になったりしている。きみはその度に、仕事を休んであの子の面倒を見ていると聞いているが?」  山口からの報告か?  夏樹は心の中で舌打ちをした。  たしかに、よく不安定になっているし、その度に俺も傍について面倒を見ているので、情報としては間違ってはいないが、なんというか……そうじゃなくて…… 「恋人の具合が悪ければ、傍にいてやりたいと思うのは当たり前です。俺が勝手に面倒を見ているだけですよ。それに、仕事については、休んでいるわけではないです。自宅にいてもできる仕事なので、雪夜の具合が悪い時は在宅ワークに切り替えているだけですよ。だから何も問題ないですね」 「ふむ……そうだったのか。それは……報告と違うな……」  隆文が、少し考えるように顎を撫でた。  そして、突然何かに思い当ったように夏樹を見た。 「あぁ、そうだ。さっきの話だが、きみは一つ誤解しているよ」 「誤解?」 「私はこの四年間、雪夜のことを、全然心配していなかったわけじゃない。毎月一回は、あの子の様子を確認していたんだ」 「毎月一回……え?それはもしかして……」 「あの子が通っている心療内科の医師、工藤は、私の後輩でな。壮絶な体験をした雪夜の記憶を、別のものに書き換えることで、日常生活に戻ることができるかもしれない、と提案してくれたのも彼なんだ」 「あの工藤医師が……?」  病院には、夏樹も何回か付き添って行ったことがある。  工藤はいつも親身になって雪夜の話を聞いてくれている、人の良いお医者さんというイメージだ。  雪夜の様子がおかしいと思ったらすぐに知らせろと夏樹に言ってきたのも工藤だ。  そもそも、工藤のこの言葉で、夏樹は雪夜の過去を調べる気になったのだ…… 「毎月一回雪夜は彼のところに通う。その時に、雪夜がどんな暮らしをしているのかを詳しく聞き出し、その内容を私に報告するのが彼の役割だ。雪夜が安全にひとり暮らしをするにあたって、彼の役割は非常に重要だ。だが、彼は裏切った……」 「裏切った……って、工藤医師がですか?」  あの温和で人の良い工藤医師が裏切り?  何回か会ったし、短いながらも話もした。  腹になにか抱えている人間なら、いくら取り繕っても仕草や表情に出て来るのだが、夏樹はあの医師に対してそういうイヤなものは、感じなかった。  裏切りという言葉が似合わなさすぎる……どういうことだ?   「雪夜が引っ越した経緯、きみと付き合っていること、仲の良い友人、過去の夢をよく見ていること……それらの報告をわざと隠し、私には『雪夜は誰とも関わらずに、大学生活を順調にこなしている』と言っていたんだ」 「なぜ工藤医師はそんなことを?」 「工藤は雪夜のためだと言っていた……」 「雪夜のためですか?」 「当初、雪夜に過去を思い出す兆候が少しでも見られた時には、すぐさまひとり暮らしを中止させて、また精神病院に入院させることになっていた。もちろん、その時点で大学も中途退学させる。だから、在学中、親しい友人や恋人を作られるのは困るんだ。雪夜が中途退学した後、雪夜の行方を探されては都合が悪い。まさか精神病院に入っていますとは言えないしな……」 「……は?」  俺は、本日何度目かの、マヌケ面を隆文に晒した…… ***

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