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夜明けの星 4-25(夏樹)
「ところで……実家では母親の幻覚を見てしまうからひとりにしておけないというのはわかりました。でも、それなら大学を卒業した後も、実家に帰らずに他の場所で暮らせばいいってことですよね?」
このまま俺と同棲を続けていれば、何も問題はないってことじゃないか。
夏樹の言葉に、隆文たちが微妙な表情をした。
「そんなに簡単な話じゃないんだ。そもそも、雪夜を大学に行かせたのは、データ収集のための実験だったからな。だがもちろん、私も雪夜が社会に出て普通に暮らせるようになって欲しいと思っていた。記憶の操作をしたのも、元々はそのためだったし……」
「実験……?」
「あ、えっとね、実験っていうと語弊 があるっていうか、聞こえが悪いんだけど、そもそも雪くんの入ってた精神病院は……」
隆文の言葉に夏樹と裕也の空気が変わったのを感じた慎也が、慌てて補足しようと口を開いたその時、院長室の電話が鳴った。
達也が出て、二言三言話すと、受話器を置いた。
「院長、この近くで車数台を巻き込んだ玉突き事故があったらしく、うちにも数名運ばれてくるみたいです」
「うちに?それはいいが、だが、たしか今はまだ……外科医が二人とも手術中じゃなかったか?」
「ええ、そうです。で、院長に来て欲しいと」
「わかった」
話を聞きながら、隆文はすでに立ち上がって白衣を手に取っていた。
「私も行きますよ。何か手伝えることがあるかもしれない」
「そうだな。あ~すまない、話は後だ。慎也、ここは頼んだぞ」
「はい!」
隆文は、夏樹たちをチラッと見て、軽く手を挙げると、バタバタと出て行った。
***
「え~と、ごめん、病院ってところは、これが日常なんだ。特にうちは救急外来を受け付けてるから、どうしても落ち着いて話をするってことが出来なくてね……」
残された慎也が、ちょっと気まずそうに夏樹たちに向き直った。
「いえ、それはわかってます。むしろ、院長自ら率先して動いている姿を見て、少し安心しました」
隆文はちょっと変わっているが、一応医師としては優秀らしい。
「父はだいぶ変わってるでしょ?息子の僕でも、最近まで父が一体何を考えてるのか全然わからなかった……いや、今でもまだわかってないけどね」
夏樹の心の中を読んだかのように、慎也が笑った。
「……父はね、なんていうか天才とか科学者とかの部類に近いんだ。僕も兄も、それなりに頭は良い方だけれど、次元が違うというか……何でも理論的に考えて、説明のつかないことがあれば、とことん突き詰めようとする。すぐに自分の世界に入ってしまうし、あまり他人の気持ちを考えることが出来ない。手術の腕は凄いけど、人間としては……いや、院長としての父は素晴らしいんだ。ただ、父親、夫としては最低。僕たちの母は、そんな父についていけなくて離婚をしたんだ」
あ~そうだな、隆文は博士とか学者っぽいわ……それでなくても、医者ってやつには偏屈なのや変人が多い気がするけど……
「まぁそれは別にいいか。じゃあ、とりあえず、僕が話せる部分は話しておくね。さっきの続きだけど……現在、涼子さん……雪くんの母親がいる精神病院は、普通の精神病院とはちょっと違うんだ。そこは以前、雪くんも入っていたところで、今回僕たちが連れて行こうとしていたところでもあるんだけど、そこはね――……」
慎也によると、雪夜の母親がいる精神病院は、他国との合同研究所のようなところで、そこは、主に末期がん患者や精神病の患者のための、薬以外での様々な治療法を研究している場所なのだとか。もちろん、患者が望めば薬も使用することは可能だ。
研究所は山の盆地を利用して、外界から遮断された場所に作られている。
広大な敷地の周囲は、野生動物や侵入者を防ぐために、ぐるっと高い塀で囲まれているが、患者がいるエリアは塀からだいぶ離れているので、塀の存在はあまり気にならないらしい。
研究施設内には薬品やいろんな装置もあって危険なので、限られた研究員だけが立ち入ることができるようになっている。
患者が動けるエリアは研究施設とは反対側の一部のエリアに限られているが、それでも、建物の外で散歩をしたり、エリア内にある飲食店でお茶をしたり、買い物をしたりと普段と変わらない生活をしているのだとか。
そこに入所していた当時の雪夜はパニック状態で、近づく人間全てに怯え、手足を自由にするとすぐに自傷行為に走ってしまっていたので、拘束し、隔離するしかなかったらしい。
隆文が言うには、雪夜も落ち着いていれば、拘束されることも隔離されることもなく、エリア内を自由に往来して普通の生活を送ることが出来ていたはずなのだとか。
「現に、涼子さんのいるエリアの住居は、病院というよりはマンションのような作りになっていて、全部屋1DKなんだよ。涼子さんは自分で料理も作るし、洗濯もする。本当に普通の生活と変わりないんだよ」
「え?」
雪夜の母親が普通の生活をしている?
「普通の生活が出来るのなら、家に帰ればいいのでは?」
「それは無理だよ。涼子さんは、娘の存在を消して、雪夜はまだ二歳だと信じて、永遠に終わらない一日を繰り返しているから平和なんだ」
「あ……」
そうだった……
「研究所の住居エリアでは、テレビやパソコン、携帯といった通信機器はないんだ。だから、涼子さんはずっと同じ一日を繰り返すことが出来る。曜日の感覚もないからね。月の満ち欠けでたまに、あれ?っとなることはあるみたいだけど、それも職員がうまく誤魔化してるみたい。そんな状態だから、涼子さんが家に帰って来るのは、まだ無理なんだ……」
涼子が普通に暮らすのを許されているのは、限られた空間の中だけ……
むしろ、そこにいるから普通に暮らせるのだ……
「そうですか……って、でも、じゃあ雪夜は?元気に普通の生活が送れているのにそんな場所に入る必要ないでしょう?今だって多少不安定になっても、一時的なものだし、過去のことは夢に見てうなされることもありますが、目が覚めれば忘れてます。過去を思い出してパニックになって、どうしようもない状態だというならまだしも、今の状態でそんなところに隔離しようだなんて、いくら何でも……」
「うん……そうだよね。でも、そこで、さっきの実験の話がね、出て来るんだよ」
慎也が少し顔を歪めて俯いた――……
***
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