355 / 715

夜明けの星 4-26(夏樹)

「その研究所は、誰でもが入れるわけじゃないんだ。僕もはっきりとはわかってないんだけど……雪くんと涼子さんが入れたのは、たまたま父の古くからの知り合いがそこの責任者をしていたからで、その責任者っていうのが、工藤医師の父親なんだよ」  当時は工藤医師もそこの研究員として働いていた。  隆文に雪夜の記憶操作を提案したのは、この工藤医師だ。  それまで部分的に記憶の上書きや書き換えをしたことはあっても、雪夜のように大部分を操作するのは例がなかったため、一種の賭け(というか、実験)だった。   「何にでも、初めてというのは存在するでしょ?新薬の開発にしても、治療法にしても、手術にしても……最初に試す人はリスクと隣り合わせなんだ。それでも、数パーセントの確立に賭けてみたいという人達がいる――」  命の炎が尽きる最期の瞬間まで、必死に足掻く。  それは生物なら誰もが持つ生存本能だ。  その研究所にいた患者は、最期まで足掻くことを決めた人たちなのだ。    精神が病むと身体にも影響が出て来る……雪夜と涼子の場合も、隆文が数パーセントに賭けたいと、不確かな治療法だとわかっていても縋りたいと、そう思ってしまう程の状態だったということなのだろう…… 「でね、え~と……ごめんね、僕もちゃんと聞いたのはね、つい数日前なんだよ。海外に出ていろいろと経験したからもう話しても理解できるだろうって……だから自分でもまだ消化しきれてなくて……」  慎也がこめかみを押さえつつ、話を続けた。 「そもそもね、雪くんの記憶を操作するのは、研究所にいたほぼ四年間かけて行われたらしくて……」 「ただ、その内容については残念ながら極秘情報なので、説明するわけにはいかないんだけどね」  全員が、突然割り込んで来た声の主を見た。  慎也は驚いているようだったが、夏樹と裕也は誰かがいることには気がついていたので、落ち着いていた。 「……お久しぶりです。工藤先生」  夏樹は、穏やかな笑顔を浮かべて院長室に入って来た工藤に声をかけた。 *** 「久しぶりですね、夏樹くん」 「雪夜には……?」 「今、様子を見てきましたよ。よく眠っていました」 「そうですか……」 「雪夜くんのことを知りたいという気持ちはわかりますが、研究所での内容は、話すことは出来ないんです。というか……雪夜くんの存在自体が、トップシークレットのようなものですからね……」 「どういうことですか?」 「ん~……じゃあ、少しだけね」  話すことは出来ないと言いながら、工藤は人さし指を口唇に当て、にっこり笑って軽くウインクをした。  思ったより口軽そうだな……大丈夫かこの人…… 「記憶を操作した実験の内容については話せないけど、まぁ、雪夜くんの記憶をちょちょいと操作して、完全に別の記憶と書き換えたんだよ。で、記憶を書き換える際、トラウマの部分だけじゃなくて、生活面や勉強面についても知識として書き込んでいったんだ。そうだな……プログラムをしていったと言えばわかりやすいかな?」 「プログラムって……」 「つまり、雪夜くんは、AIのような状態になってたってことだ」 「ロボット……だと!?」 「なっちゃんっ!!もうちょっと我慢!!」  立ち上がりかけた夏樹は、また裕也に腕を掴まれた。 「雪夜くんは非常に優秀なAIになった。ただね、このにはひとつ問題があって……雪夜くんレベルの処理能力がある脳じゃないとダメなんだ。平均レベルの人間に試したら、すぐに容量不足でパンクしてしまってね……結局、この治療方法は中止になったんだよ」  工藤は穏やかな表情のまま、世間話でもするように話す。   「だが、雪夜くんは成功している。成功例として、その後の経過観察は必要だ。そこで、次の段階に入ってみることにした。それが、退院だった……」  雪夜が自宅に帰って来たのは、治ったからではなく、研究の一環として帰されただけだったのだ。 「ただ、そこで雪夜くんに思いがけない症状が現れてしまった」 「母親の幻覚……ですか?」 「その通り。母親の幻覚が見える状態は、ある種のバグだ。それでは、正確なデータは取れない。慎也くんや達也くんが頑張ってくれたので、だいぶ情緒面が発達したものの、いくら書き換えてもやはり一人でいると母親の幻覚が見えてしまう」 「母親の幻覚が見えるのはダメなんですか?」 「ん~……心に深い傷を負った患者が、自分を守るために作りだす幻覚は、その人にとっては良い場合もあるよ。雪夜くんも、普通なら別にそのままで構わないんだけど……ただ、彼は普通じゃない。唯一無二の存在だから、今後の研究のためにも、正確なデータが必要だった」  隆文も交えて会議を重ねた結果、実家から出せばバグが無くなるのでは?という意見が出た。  そこで、もう一段階先に進めることになった。  本来ならば高校卒業と同時に研究所に戻す予定だったが、ひとり暮らしをさせるために大学に行かせることになったのだという。 「私は知り合いの病院で、心療内科医として雇ってもらう手筈を整え、雪夜くんも以前からその病院で私のもとに通っていたという記憶に書き換えた。途中で実家に帰られてしまうと、またそれらがリセットされてしまうかもしれないので、大学在学中は、実家に帰ったり、家族に会ったりすることはないように、記憶の調整もして……」 「ええっ!?もしかして、大学に入ってから雪くんと連絡取れなかったのは……それが原因だったんですか!?」  慎也も初めて聞いたらしく、茫然と工藤を見た。 「そうですよ。大学に行かせるのは予定になかったので、本当に事前準備が大変だったんですよ……それなのに、あなたたちが予定よりも早く帰国して雪夜くんに会ってしまうし……他にも想定外のことだらけで……」 「あ~……もしかして……またしてもバグ……かなぁ~?」  裕也がちょっとおどけた顔で夏樹を指差して、にんまりと笑った。    うわぁ~……裕也さんまでちょっとウザいわ……  いや、それは前からだけど……  それにしても何なのこいつ……さっきから何の話してんの!?  AIだとか、ロボットだとか、バグだとか……  夏樹は、爪が食い込む程に強く拳を握りしめた。    夏樹にも、工藤の話はわかる。  客観的には、何を言っているのかはわかるし、何がしたかったのかも何となくわかる。  だが、今その話の中心にいるのは自分の恋人だ。  自分の恋人が……ロボット扱いされて……工藤に好き放題頭の中を弄られて――……  怒りを感じないほうがどうかしてるだろっっ!? 「ナツ、まだ待て。工藤が隆文を裏切った理由を聞いてからにしろ」  裕也の手を振り払おうとした夏樹の耳元で、斎の声がした――…… ***

ともだちにシェアしよう!