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夜明けの星 5-16(夏樹)

 およそ二時間後―― 「雪ちゃん、寝たか?」 「そうですね」  斎が、夏樹の胸元にしがみついている雪夜を覗き込んできた。   「今日は粘ったな~、雪ちゃん」 「こんなに粘るのは久々でしたね」 「あらら~、雪ちゃん顔べっちょべちょだね~。なっちゃんも服が大変だぁ~」  ごめん、タオルも持ってくればよかったねぇ……と裕也がちょっと申し訳なさそうな顔をする。 「あぁ、服は着替えがあるので大丈夫ですよ」  一日に何枚も着替えるのは、もういつものことだ。  タオルがないのでそのまま服で雪夜の顔を拭こうとしていると、 「ほら……使いなさい」  隆文がタオルを用意してくれた。 「あ、どうも……」  夏樹は隆文からタオルを受け取ると、涙でぐちゃぐちゃだった雪夜の顔を拭いた。 「~~~……」  雪夜がちょっと顔をしかめてタオルを手で払おうとする。   「こぉら、雪夜、ちょっと拭かせて。そのままだと後で顔が痛くなっちゃうよ~?」  雪夜の手を躱しながら手早く拭いて、また眠るように促す。  昨夜はあまり眠れていないし、今日は久々に暴れたので、もうしばらくは起きないはずだ。 *** 「――雪夜を研究所に戻すというのは……選択肢の一つだ」 「選択肢?」 「きみの返答次第では、そうなる。ということだ」 「俺の……ですか?」  怪訝な顔で見つめる夏樹に、隆文は静かに切り出した。 「きみは……雪夜の面倒を一生見続ける覚悟はあるか?」 「はい」 「今だけじゃない、一生だぞ!?もっとよく考えて返事をしなさい!」  即答した夏樹に、隆文がちょっと顔をしかめる。   「よく考えても何も……そんなことなら、雪夜がこうなるずっと以前から考えてましたよ」 「……なに?」  雪夜と一生一緒にいたい……それは、雪夜に初めて指輪を贈ろうと思った時から考えていた。  その気持ちは、雪夜の過去を知った後も、雪夜が昏睡状態になった時も、現在(いま)も、何も変わりはない。   「それだけの覚悟がなけりゃ、半年間も昏睡状態の恋人に付き添わないし、半年間も自分を忘れてしまった恋人の傍に付き添ったりしませんよ」 「……そうだな。いや、実際、きみがあの子のためにどれだけ献身的に付き添ってくれているのかはわかっている……わかっているが……」  隆文は、一度深く息を吐いた。 「この先……雪夜の記憶が戻るのか、雪夜が話せるようになるのか、何もわからない。社会生活どころか、普段の生活自体、出来るようになるのかも……下手をすれば、ずっとこのままかもしれないし、もしかすると、また子どもの頃のように、精神が壊れてしまうかもしれない……」  淡々と話しながらも、隆文の組まれた両手に力が入っていた。 「私は、二十年前、涼子と雪夜の面倒を一生みるつもりで、それだけの覚悟をして涼子と籍を入れた。だから、雪夜のことも、何があっても面倒はみるし、私が先に亡くなっても、兄の達也たちがみてくれる」  隆文が涼子と正式に籍を入れたのは、涼子が研究所に入ってからだ。  精神が病んでしまった涼子と籍を入れるのは、かなりな覚悟が必要だっただろうと思う。 「きみは、血の繋がりもなければ、籍が入っているわけでもない。いわばだ。だから、これから先、雪夜の介護に疲れて、他に目移りをして雪夜を捨てたとしても、誰も文句は言えない……」 「俺は雪夜を捨てたりなんかしませんよ!」 「今は雪夜のことを盲目的に愛してくれているのかもしれないが、人生は長い。そして、二十四時間の介護がどれだけ大変かはきみが一番、身をもって知っているはずだ。絶対にない……とは言い切れないだろう?」  たしかに、人生は長い。  先のことなどわからない。  この一年の間に、夏樹だって看病疲れは出たし、精神的にキツイ時もあった。  だが…… 「それでもっ……」 「まぁ、もう少しだけ聞いてくれないか」  隆文が、前のめり気味に反論しようとした夏樹の言葉を遮った。 「雪夜の面倒を見切れなくなったからと言って、きみを責めることは出来ない。きみがどうしようと、それはきみの自由だ。ただ……雪夜にはタイムリミットがある」 「……タイムリミット?」 「記憶を弄れるタイムリミットだ」  どういう意味だ? 「あ~、えっと、実は……」  夏樹が戸惑っていると、それまで静かに話を聞いていた工藤が横から割り込んできた。  工藤によると……  雪夜の記憶を弄った治療方法(実験)については、何人か試したものの、雪夜にしか成功していない。  それだけ脳に負荷がかかるということだ。  だが、脳の機能は年齢を重ねるごとに低下していく。  その上、雪夜はもう何回も記憶を弄っている。  これ以上弄るのは、雪夜でも厳しい。  おそらく出来ても後一回…… 「それも、年齢的に、がギリギリなんだ……」  工藤が言いにくそうに顔をしかめつつ、夏樹にもたれて爆睡している雪夜を見た。 「つまり、数年後、きみが雪夜を見捨てた時に、もしまだ雪夜がきみ以外の人間は鬼に見える状態だったとしても、その時にはもう記憶を弄ることができないので、確実に……雪夜は子どもの頃のように部屋に独りで閉じ込められることになる。そして、そのまま一生そこで過ごすことになるだろう……だが、私はもう二度とそんなことはしたくない。そんなことをするくらいなら、今、研究所に連れて行って、できる範囲で記憶を弄って……そして行く行くは、涼子と三人でどこか南の島ででも穏やかに余生を過ごしたいと考えている――……」    タイムリミット……か……  隆文が夏樹と雪夜を引き離そう焦っていたのは、性別だとか、夏樹が気に入らないだとか、それだけが理由じゃなかったってことか…… 「なるほど……あなたの言いたいことはわかりました……」  夏樹は、隆文と工藤の言葉を噛みしめながら、深く息を吸った。 「それじゃあ、俺は――……」 ***

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