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夜明けの星 6-7(夏樹)
「はい、今日はここまで!雪夜くん、よく頑張りました!」
理学療法士の学島 学 が、パン!と両手をあわせてにっこりと笑った。
学島は、退院してからの雪夜のリハビリを担当してくれている。
これまた夏樹の知らないところで話が進んでいたので、経緯はよくわからないが、元々人気のあるトレーナーで、有名なスポーツ選手のトレーナーもしていたらしい。
ところが、同業者に妬まれて陥れられ、スキャンダルをでっち上げられて仕事を失ったのだとか。
噂を流され新しい仕事にも就けずにいたところを、なぜかマダム百合子に拾われて、浩二から雪夜のことを聞いていたマダムが、2年契約で雪夜の専属として雇って、ここに送り込んで来たのだ。
「ほら、雪夜、先生にありがとうは?」
「……っ」
雪夜が頷く程度にペコっと頭を下げると、急いで夏樹の背中に隠れた。
「すみません、今日はダメな日で……」
昨夜はよくうなされて目を覚ましていたので、今朝は睡眠不足も相まってグズグズだった。
「大丈夫ですよ~。それでもちゃんと取り組んでくれていましたし。雪夜くんは頑張り屋さんですね!明日もよろしくね、雪夜くん!――」
雪夜の担当になってもうすぐ三か月になるので、学島も雪夜の扱いには慣れてきている。
学島は人気があったと言うわりには驕 ったところもなく、少し天然でほんわかした空気を纏っている。
別荘に来てから不安定だった雪夜が何とか毎日リハビリを受けることができたのは、学島のその人柄のおかげだ。
***
「――雪夜、次は『か行』書いてみて?」
「……っ!」
リハビリの後、ベッドで仮眠をしていた雪夜は、20分程で起きてくるなりお絵描きボードを手にした。
子ども用のおもちゃで、簡単に繰り返し書いたり消したりして遊べる、磁気お絵描きボードだ。
これは退院祝いにと斎 と菜穂子 夫婦からもらった物で、「ペンを使って書くから指先の訓練にもなるし、文字が書けるようになればコミュニケーションも取りやすいだろうから、ナツが頑張って文字を教えてあげなさいね!」とのことだった。
半年間使っていなかったせいで指も手首も動きが硬くなっている雪夜は、細かい動作が出来ず、スプーンを持つのも一苦労だったが、ペンを持ってお絵描きをしているうちにだいぶ指先を上手に動かすことが出来るようになった。
ペンが持てるようになってきたので、最近は文字の練習もしている。
達也たちの話では、三歳の頃には雪夜はひらがなの読み書きが出来ていたらしいので、教えればすぐに思い出すかもしれないし、菜穂子が言うようにコミュニケーションが取りやすくなると思ったからだ。
これとセットで『あいうえお表』も貰っているので、雪夜はそれを見ながら書いている。
「――そうそう、上手。上手だけど、いきなり『く』から?『か』は?」
「……」
雪夜がツツッと視線を逸らして遠くを見るような目をした。
「こらこら、逃避しない!帰っておいで~!……書き方忘れちゃった?一緒に書こうか?」
「!」
実は『あいうえお表』のおかげで、すでにだいぶコミュニケーションが楽になっている。
雪夜は、ひらがなの読みはすぐに覚えたので、伝えたいことがある時はあいうえお表の文字を指差して伝えてくれるようになった。
でも、書くのはなかなか思うようにいかない。
隆文たちによると、おそらく落ちた時に頭を打った影響だろうとのことだったが、雪夜は文字を読んだり、言葉を理解したりすることは出来るけれども、どうやら書き方を忘れてしまっているらしい。
そのため、書き順も字のバランスもぐちゃぐちゃになるので、夏樹が手を添えて書き方を教えている。
「ん~?えっと……雪夜くん、こっち向きに座られると一緒に書けないんですけど……?」
夏樹の膝に向い合せに座って来た雪夜にちょっと苦笑する。
「?」
「一緒に書くんだったら、そっち向いてくれないとね。よっと……」
雪夜の頬を軽くペチペチと撫でると、抱き上げて背中向きに座らせ、背後からペンを持つ手を握った。
「『か』は、こうやって……こうきて、こう!わかった?」
「!!」
「よし、自分で書いてごらん?」
「……~~~……っ!?」
「そうそう、上手!」
「!」
雪夜が自分で書いた文字を得意気に夏樹に見せてくる。
最近は嬉しい時の表情もだいぶ出て来るようになった。
以前夏樹が言ったからか、嬉しいと、クイッと口角を持ち上げる。
最初は片方ずつ、ピクピクと軽く痙攣しているような感じだったが、だいぶ両方を同じように持ち上げられるようになった。
雪夜のその様子を見た斎が、「どこぞの夢の国のキャラみたいな口してんな」と笑っていたが、確かにちょっと似ているかもしれない。
自然な笑顔が見られるのはまだもう少し先のようだ。
「~~~~……~~~~……?」
「うん、そうそう、上手に書けてるよ」
雪夜は、一度教えると、書き順を忘れないようにその文字を繰り返し練習する。
覚えはいい方だ。
だが、睡眠時の記憶整理の影響なのかわからないが、翌日にはまた『あ』から全部教えなければいけないこともある。
今日のように夢見が悪かった時にはそうなることが多い。
でも、毎回一生懸命覚えようと頑張っている。
学島が言っていたように、雪夜は頑張り屋さんだと思う。
リハビリだって、どんなにグズグズでも、泣きながらでも、逃げずにちゃんと受けてくれる。
思い通りにならない身体にイラ立っても、諦めない。
そんな雪夜だから、みんなが手を差し伸べてくれるのだと思う。
「うん、スゴイスゴイ!いっぱい書けたね!」
「!」
『か』で埋め尽くされたボードを満足そうに眺める雪夜を抱きしめて、こめかみに軽く口付けた。
大丈夫。忘れたらまた俺が教えるよ。
だから一緒に頑張ろうね。
***
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