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夜明けの星 8-27(夏樹)

「さて……と……」  夏樹は、斎が入れてくれたコーヒーを飲みながら時計を見ると、そっと斎と目配せをした。  ジュースを飲んで機嫌が直った雪夜に視線を移す。  雪夜は朝ご飯を食べている間も、(せわ)しなく別荘の中をキョロキョロと見回していた。  今も、夏樹たちの視線に気付かないほど周囲に気を取られている。  見回して何かに目を止めては首を傾げる……  また視線を動かして別の何かに目を止めては、じっと考え込む……  夏樹と斎は世間話をしながらしばらく雪夜の様子を窺っていたが、ずっとそれの繰り返しだった。  見覚えがないはずなのになんだか見たことがあるような……という表情だ。  明らかに、記憶が混濁している。 「雪夜……ゆ~き~や!お~い!」  雪夜の目の前で手を振る。 「……ぇ?あ、は、はい!すみません、ちょっとボーっとしてて……」 「うん、あのね……何か俺たちに聞きたいことはない?」 「え?」  夏樹の問いかけに、雪夜が一瞬固まる。 「聞きたいこと……ですか?」 「うん」  夏樹たちには雪夜に聞きたいことがたくさんある。  だが、雪夜にとっても……わからないことだらけだろう。  きっとこの数年間を知れば雪夜はもっと混乱する。  かといって、誤魔化していてもそれはそれで雪夜が不安になるだけだ。  ……どちらにしても雪夜には負担がかかる。  なら、少しずつ話を進めて行くしかない。 「あの……あの、俺……寝ぼけてるみたいで……えっと俺……は……どうしてここに……いるんでしたっけ?」  雪夜が、こんなことを聞いて変に思われないだろうか、という顔で、恐る恐る夏樹と斎を交互に見た。 「う~ん……雪夜はどこまで覚えてる?」 「え?」 「さっき、気が付くとテラスにいたって言ってたよね?じゃあ、雪夜はその前はどこにいたの?」 「あの……えっと?」 「あ、待って、えっとね……今の質問はわかりにくいよね、え~と……」  そもそも、今の雪夜は大学生だとして……何歳だ?  斎さんのことはわかってるし、この別荘のことも知っているということは、少なくとも……俺の実家に行った後……だとは思うけど…… 『基本情報』  夏樹がどう話そうかと考えていると、斎が無言でタブレットに書いた文字を夏樹に見せて来た。  基本情報?  夏樹が首を傾げていると、 『ナツと雪ちゃんは恋人同士。とか』  そこから!?  いや、それはさすがに知ってるでしょ……さっきだって、俺のことを恋人だって認識してるからあんなに照れてたわけだし……え、そうだよね?  冗談かと思って笑い飛ばそうとしたが、斎は至って真面目な顔だったので、夏樹はとりあえず斎の言う通りにしてみることにした。 *** 「んん゛、えっとね、雪夜。落ち着いて聞いて欲しいんだけど……実はね……雪夜は知らないかもしれないけど……俺、夏樹凜(なつき りん)は……雪夜の恋人なんです!!」 「……ふぇっ!?こ、恋人!?」  雪夜があんぐりと口を開けた。  え、待って!?なんでそんな驚くの!?  もしかして……覚えてな…… 「……って、も、もちろん知ってますよっ!!……え、こ、恋人同士……ですよ……ね?」  少し頬を染めつつ、雪夜が上目遣いに夏樹を見て小首を傾げた。 「うん、恋人同士だよ!?知ってた?良かったぁ~!」    夏樹は雪夜ににっこりと微笑んだ。    いや、マジで……一瞬ホントに覚えてないのかと思って焦ったし…… 「んん゛、後ね……実は雪夜には……佐々木と相川っていう親友がいます!!」 「ええっ!?……って、だから、知ってますよ!!」  雪夜が、「もう!さっきから何でそんな当たり前のことを重大発表のように言うんですか!?」と夏樹の腕を軽くペチンと叩いて来た。  重大発表なんだよ……俺らにとっては…… 「それは良かった。あいつらも喜ぶよ」  うん……本当に喜ぶと思う。  この数年間。俺もきつかったけど、あいつらはもっと……きつかっただろうから……    夏樹はこの知らせを聞いた時の佐々木たちのことを思い浮かべて、ふっと微笑んだ。  雪夜がこの当たり前の事実を覚えている、知っているということが……俺らにとっては重大発表なんだよ…… 「え……?」 「それからね、雪夜と俺は、同棲もしててね――……」  夏樹はその後も、出会ってからの雪夜との基本情報を次々にあげていった。  雪夜は戸惑った顔をしつつも徐々に夏樹の話しにじっと耳を傾け始めた。  なるほど……斎さんが基本情報から話せと言った意味が分かった気がする。   雪夜の中での当たり前の記憶情報と、真実の記憶と、偽物の記憶……  混濁している状態では、雪夜自身で見極めるのは難しい……  雪夜が記憶を整理しやすくするためにも、“当たり前の情報”が必要だということだ。 *** 「――えっと……あの、それは……覚えてるんですけど……」 「うん」  雪夜の様子を見ながら、隣人トラブルや緑川の件、客船事故の件など、トラウマになっている部分は簡潔に話していく。  大学4年になって、山口の話しに差し掛かったあたりで雪夜の表情が変わった。 「ちょ、ちょっと待ってくださいね……」  雪夜が頭を抱えて真剣に考え込んだ。   「そうだ……俺……あの……俺夏樹さんと……――」 「うん」 「えっと……?……俺……なんで……どこに……あの時……」 「ゆっくりでいいよ」 「俺……夏樹さんと……あれ?……っ……でも、別荘……なん……で……」 「雪夜っ!!ストップ!!」 「雪ちゃん、そこまでっ!」  雪夜の表情が強張り呼吸が乱れてきたので、夏樹と斎が同時にストップをかけた。  夏樹は雪夜をそっと抱き寄せ、小さく震えている手を握って背中を擦りながら、ゆっくり深呼吸を促した。   「雪夜、一旦落ち着こうか。こっち見てごらん?ね?」 「……おれ、は……ヒュッ!……な……にを……なん……っ!ゲホッ……ぅ゛っ……」  雪夜が嘔吐(えず)いた瞬間、斎がすかさずゴミ箱を渡して来た。  おかげで、今回は雪夜の手も汚れることはなかった。    話しをすればとわかっていたとはいえ、苦しそうな雪夜を見るのは辛い。  雪夜は先ほどよりも吐き気が酷いらしく、口を漱いだ後もまだ嘔吐いていた。 「大丈夫……焦らなくていいから……わからないなら別にいいんだよ。覚えてないならそれでもいいんだ」 「おぼ……えて……?……ぅっ……」 「よしよし……ごめんね、苦しいよね」  夏樹が膝に抱き上げると、嘔吐のしすぎで完全にグロッキー状態の雪夜がぐったりともたれてきて、夏樹の服をやんわりと握りしめた。  乱れた呼吸音が、混乱している雪夜の悲鳴のように聞こえた……  覚えてないならそれでもいい……というのは、夏樹の願望だ。  大学時代の記憶さえ戻れば、他のことは……忘れてしまっても構わない。  辛くて怖いだけの記憶なんて、無理に思い出さなくてもいい。  夏樹のこと、佐々木たちのこと、兄さん連中のこと……楽しい記憶だけ覚えていれば……  それが雪夜にとっては一番……幸せなのかもしれない……  夏樹は複雑な想いを胸に抱きつつ雪夜を抱きしめた。 ***

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