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夜明けの星 9-83(夏樹)

 昼食後、雪夜は食器を洗う夏樹の背中にずっと抱きついていた。 「ちょっと待ってね~。もうすぐ洗い終わるから……」  夏樹は手早く食器と調理器具を洗うと、タオルで手を拭いた。 「はい、お待たせ!おいで」  振り向いて雪夜を抱き上げると、雪夜は夏樹の首にぎゅっと抱きついてきた。  辛うじて子ども雪夜にはなっていないものの、やはり少し不安定になっているようだ。 「よしよし、大丈夫だよ。もうちょっと音大きくする?」 「ん……」  BGMの音量を少し大きくしようとした夏樹は、ふと手を止めた。  あ~……っと……大きくするのは次の曲からでいいかな~……なんて…… 「夏樹さん?」  手を止めた夏樹を雪夜が訝し気に覗き込んでくる。 「あ、はいはい。ちょっとだけ大きくするね」  夏樹は心の中で苦笑いをしつつ、音量を弄った。  雪夜の選曲は、ポップで明るめの曲が多い。  自然と身体でリズムを取りたくなるような気分が上がる曲ばかりだ。  でも、そんな中でたまに異色なバラードが流れる。  昔夏樹がギターで弾き語りをした曲だ。  一応、プレイリストは雪夜が好きな曲、今聞きたい曲、を選んでいるはずなので、別にポップな曲ばかりでなくてもいいのだが……よりによってバラード……  しかも……雪夜が選んだリストに入っているのは原曲ではなく夏樹の弾き語り音源の方だ。  雪夜のために裕也が入れてくれたらしい……  もちろん、夏樹には内緒で。  夏樹がこの音源が入っていることに気付いたのはだいぶ経ってからだった。  ハハハ、自分の歌声を数分おきに聞かされる……これ一体何の拷問ですか……?  まぁ、雪夜がこれを聞いて落ち着くならいいんだけどね……うん…… ***  夏樹が何とも言えない複雑な気持ちで自分の歌声に耐え、ようやく次の曲が流れ始めてほっとしていると、雪夜が夏樹の胸元にグリグリと顔を擦りつけ、「よしっ!」と何やら気合いを入れて、勢いよく夏樹から離れた。 「ん?どしたの?」  何が「よしっ!」なの!? 「夏樹さん、これ借りていいですか?」  雪夜は夏樹の携帯を指差した。 「携帯?別にいいけど、どうしたの?佐々木たちに連絡するなら、もうちょっと待った方が……今は電波が悪いかもよ?」 「あの、えっと……えっとね?曲が聞きたいなって思って……えっと、だから母屋のリビングに行ってきます」  ん?どういうこと?  えっと、曲が聞きたいから携帯を貸して欲しいって話と……なんでそこから「だから、母屋に行ってきます」になるの!? 「母屋に何か取りに行くの?なら俺も一緒に行……」 「あ~~~っっ!」  雪夜が夏樹の言葉を遮るように大きな声を出した。 「え?な、なに!?」 「だだだ大丈夫です!あの、だから!!近いから!!ひとりで大丈夫!!」 「っえ!?いやいや……」  なのは知っている。  娯楽棟のリビングから母屋のリビングまではたった数メートル。徒歩3分もかからない。  問題は距離ではないのだ。  雪夜は、先ほどまで夏樹の傍から離れようとしなかったくせに、急に夏樹から離れて母屋に行って来ると言い出した。  別に別荘の建物内なら危険な場所はほとんどないので、大学生の状態の雪夜なら心配することはない……が、それは雪夜が落ち着いている場合だ。  今日のように台風で大荒れの天気で、ただでさえ若干不安定になっている雪夜をひとりにするのはさすがに…… 「雪夜をひとりで行かせるのはちょっと……」 「すぐに戻って来るから大丈夫ですよ!」 「……どうしてもひとりで行くのがいいの?」  夏樹はしばらく雪夜をジッと見つめた。 「はい!あの、えっと、ちょっと大事なものを取りに行くだけだから……」  普段なら夏樹が見つめると真っ赤になって目を逸らし大騒ぎをする雪夜が、今日は若干照れくさそうな顔はするものの、真っ直ぐ夏樹を見つめ返してきた。  何が何でもひとりで行きたいらしい。 「わかった。じゃあ……これ持ってて」  渋々折れた夏樹は雪夜の首に笛付きの防犯ブザーをかけた。 「何かあったらすぐに連絡して?大きな声を出すとか、電話するとか、ブザー鳴らすとか、笛吹くとか……とにかく方法は何でもいいから、ちゃんと俺に知らせてね!?」    もし雪夜がひとりで母屋にいる時に雷が鳴ったり稲妻が走ったりすれば、トラウマからパニック発作が起きる可能性が高い。  急に発作が起きたら、声は出せないだろうし、電話をしてくる余裕もないかもしれない。  その点、ブザーなら引っ張るだけで大きな音がして夏樹に知らせてくれる。 「はい!わかりました!そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、本当にすぐに戻ってきますから!」  雪夜は嬉しそうににっこり笑うと、急ぎ足で母屋に向かった。 ***

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