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Act.1優-1

 生きるって事は辛いことばっかりだ―――  日が暮れて真っ暗になって見る海は、深淵とも言える大量の黒い液体だ。眺めながら優はそう思った。  今日は今年一番の冷え込みで、各地で積雪の恐れがあります。通勤通学には十分ご注意下さい。朝、ぼんやりと眺めていたニュースでお天気お姉さんがそんな事を言っていた気もしたが、今の優にとってそんな事はどうでもよかった。  しとしとと降る雪。肌を刺す冷たい冷す気。  こんな寒い日にマフラーも手袋もせず、ましてや着ているのは紺色の薄手のコート。その下はTシャツで、ズボンもジーンズにスニーカーという、どちらかというと春か秋の服装だ。  だがそんな事は気にならない。手足の感覚はなく、肌はひんやりとしているが、風が当たっても痛くない。吐く息だけはずっと白いままだ。  どうして海なんていう塩水の溜まったものを見に来たのかわからない。そしてここにいつからいるのかも優にはわからなかった。  ただただひたすらに何もかもが嫌だった。疲れていた。死にたいと思った。けどそんな度胸はないので自殺なんて事は出来ないが。  それならいっその事、誰か殺して欲しい。  あられもない非現実ばかりが頭の中をぐるぐると巡っていた。  優は思春期真っ只中の中学生時代、自分の立場、自分が世の中において、どうしておくべきかわかった。特に優が被害を被ったというわけでもないが、社会の縮図はこの時から決まるのだと理解した。  人間社会はどんなに自由を訴えようが、民主主義や自由主義を訴えようが、所詮はヒエラルキーの中にある。金や権力を持つものがピラミッドの頂点に立つ事はもちろんだが、個々人の容姿や趣味、態度や他人からの信頼度で全てが決まる。  自分が存在するのはピラミッドの底辺で、もしかしたらその枠から外れているのかもしれない。  人は人を陥れる事で自分を優位な位置に立たせる。そうやって優も誰かに踏まれながら這いつくばって生きてきた。  どうしてこの世に生を受けたのだろうか?  それは両親に望まれて創られ、生まれてきたから。それが普通の人の感覚であり、よくある回答だろう。もちろん中にはそうでない人もいる。自分は後者の方だった。  両親や他人の愛情など知らない。  むしろ「愛」とは一体何なのか?形にもなく見えない。優にとって「愛」とは求めても手に入れられないものだ。自分自身がそれを知らないのに、それを他人に求めるのも間違っている。  もしもここで優が死んでも誰も悲しまないだろう。むしろ周りは「あぁ、死んでくれたんだ」くらいに思うだろう。  どうしてこの時代、この世界に生まれたのだろうか。いらない存在ならいっそ消えてしまいたかった。  ふと自分の頬に温かい雨のようなものが流れているのに気が付いた。  これは涙なのか?  涙というものはこの世で一等綺麗なものだとどこかの誰かが言っていたっけ?涙は真実を映し出す鏡だとかも……なら自分がこうして流している体液は何と表現していいのだろうか?  悲しいのか、辛いのか、死にたいのか、どれが正解かもわからないし、どれもが正解かもしれない。  一旦流れ出た涙は止まる事なく優の目から流れていく。止めたくてもその術を知らない。自然と収まるのを待てばいいのだろうか?そう思っていると、優の目の前にスッと四角い布状のものが現れた。 「あの、大丈夫ですか?」  声のした方を見ると、優よりも見た感じに年上の男がハンカチを差し出してきた。  歳は二十代後半だろう。背が高く、黒髪で綺麗な肌をしているが、目も口も鼻も平均的なパーツで、どこにでもいるような男だ。スーツの上には茶色のダッフルコートを着て、手袋やマフラーでこの寒さの防寒をしている。  優は差し出されたハンカチを手にするべきか困った。すると男の方も優の反応に困ったのだろう。「えっと……あの……」と戸惑う声を漏らしていた。 「大丈夫です」  一言。なんとか言葉を見つけた優は、目の前にいる男にそう言った。 「でもさっきからずっと泣いていて、気になったんで……」  さっきからとはいつからいたのだろうか?優が呆然と海を眺めていたのをこの男は見ていたのだろう。少々不快な感じはするものの、優は眉一つ動かさず男に言い放った。 「大丈夫です。俺の事は放っておいて下さい」 「けど君、すごく辛そうな顔してるし……」 「平気です」  冷たく言い放っても男はその場を動こうとしない。親切心で男は優にハンカチを差し出したのだろう。珍しい人間もいるんだな、程度にしか優は思わなかった。大抵の人は優がそう冷たく言い放つと去って行く。当たり前だろう。相手も気分を害するからだ。  だが男は違った。一向に手を出さないハンカチを今度は優の頬に添えたのだ。 「ちょっと……あんた!」 「僕が勝手にしてる事なので気にしないで下さい」 「き、気にします……」  他人に――布越しだが――触れられたのはいつ以来だろう。いつもなら指先が当たっただけでも不快な気分になるのに、この男に触れられても不思議と嫌ではなかった。 「あの、もう大丈夫ですから……」 「本当に?」 「あんた結構しつこいですね。俺が大丈夫って言ってるんだから大丈夫です」 「そっか。それならよかった」  何がよかったのだろうか?男はニコリと笑って優を見つめていた。  変な奴。  それが優の思った男の第一印象だった。 「ずっとここにいると風邪引くよ。家に帰った方がいいよ」 「ありがとうございます。でも大丈夫ですから」  帰る家などどこにもない。ましてやどこに帰ればいいのか優にはわからなかった。すると男は人好きしそうな笑みから一転、悲しそうな表情を見せた。 「君、さっきからずっと大丈夫ですしか言わないけど、何が大丈夫なの?」 「さぁ……」 「さぁって……」  男はほとほと困り果てたといった表情だ。願わくばこのままいなくなってくれたら大変助かる。 「大丈夫って言葉は、人に安心させる為の言葉であると同時に、人を寄せ付けない為の言葉でもあるんだよ」  今度は説教かと思った。 「君の場合は後者の方だよね?何かあったの?」 「あんた、結構しつこいですね……俺がどうしていようとあんたには関係ないでしょ?」 「そうだね。けど、君を見ていたら、辛い、苦しい、助けてって言っているようにも見えるんだ」  とことんおめでたい頭をしているんだなと優は思った。俗に言う電波男なのではないのか?だが、それと同時にどうしてそこまで優に構うのかわからなかった。 「ねぇ、何かあったなら教えてよ。あ、僕は藤堂大地って言って、市役所に勤めてるんだ」  藤堂大地……お役所勤めのサラリーマンが何で自分なんかに声をかけてくるのか、ますますわからない。もしも優が未成年で、小さな子供なら保護の意味もあっただろうが、生憎と優は二十三で立派な成人男子だ。 「君の名前……聞いてもいいかな?」 「……優……」 「優君か。ねぇ、こんなとこにいても仕方ないから、早く家に帰りなよ」  なんだか大地の優への扱いは丸っきり子供のような感じがした。釈然としないし、相手にするのも面倒なので、優はだんまりを決め込む事にした。  さっさと帰れよ――  心の中で大地に悪態をついた。すると大地は何かを察したのか、「もしかして……」と心配そうな声で優に問いかけた。 「もしかして、家がないのかな?」 「……………」  嘘でもありますと答えればよかったのだろうが、黙ったままで肯定も否定もしない。 「だったら家に来る?」 「はっ?」 「別に変な意味とかじゃなくて、家は僕と祖母だけだから部屋数だけは無駄にあるんだ。それにこのままじゃ優君、帰りそうにないからさ」  赤の他人、ましてや数分前に出会った身元不明の男をよく自宅に呼ぶなと優は半場呆れかえった。 「あんたさ、お人よし過ぎるって言われない?」 「まぁ……自分で言うのもなんだけど、よく言われるかな」  詐欺グループが大地を知ったら、真っ先に詐欺を働きそうだ。そんなのでよく市役所職員なんてやれるなと、大地の事を考えるとため息が漏れた。  呆れてものも言えないでいた優だが、突然ふわりと首元が暖かくなった。 「そんな薄着じゃ寒いでしょ?」  大地のしていた白いマフラーが優の首に巻かれた。マフラーからは大地の匂いと毛糸の匂いがした。 「ほら、おいでよ」 「こ、困ります!勝手な事しないで下さい」 「じゃあさ、このままちゃんと帰る?」  その問いに何と答えていいのかわからなかった。だが大地は真剣な表情で優を見つめていた。 「行く場所がないんだったら遠慮せずに来ていいよ。ばあちゃんも誰かいた方が喜ぶと思うし」  きっとこいつは日向(ひなた)でのんびりぽかぽかと育てられたんだな。自分とは真逆な人間だ。  だがしかし、こうしてここで押し問答をしていても、そのうち警察に連れて行かれるかもしれないと思った優は、諦めて大地の家に行くことを決意した。 「わかりました。あんたの家に行きます。行けばいいんでしょ?」 「そうだね。優君は危ない感じがするから放っておけないよ」  苦笑する大地に優は唖然とした。大地の家に行く、行かない以前に、あんな言い方をすれば誰だって怒る。なのに大地は怒らなかった。 「あんたって……本当に変な奴」 「うん。それもよく言われるよ」  正真正銘の馬鹿って言うのを初めて見た気分がした。お人よしで人を疑わない、何かのボランティア団体のように、優のような人間を保護して、馬鹿と変以外に大地を表す表現が思い浮かばなかった。  さくさくと夜の砂浜を歩き、道沿えに出ると一台の自転車があった。どうやらこれは大地のものなのだろう。優は黙ったまま大地の後ろをとぼとぼと歩く。その間二人の間にはこれと言った会話はなかった。

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