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第18話 蠱惑
「神様は願い事を聞くだけで何もしてくれないけど、悪魔は対価を払えば願いを叶えてくれるのよ。」
目が覚めた。
多分、夜。大きな硝子の窓からは月明りが差し込んでいる。
誰も居ない静かな部屋。天蓋付きの豪奢なベットに寝かされている。
顔の左側には幾重に厚く巻かれた包帯。
どこも痛くはないけど、体が動かない。
どれほど眠っていたかは分からない。
途中、激痛のあまり「殺して」と「死にたい」を交互に叫んだ記憶はある。
激しく暴れて…押さえつけられて…、そこから、また記憶がない…。
「起きたの?」
見えない包帯の側の方から声がした。
顔が動かせない。動くのは残った右目だけ。
頬杖をついて添い寝している若い男が見えた。
カシエルに似た琥珀色の瞳。緩く波打つ黒髪。少し吊り上がった大きな目を閉じてにっこりと微笑んだ。
角は生えていないけど、あの豪華な客室でみた悪魔だと気が付いた。
悪魔が軽薄な口調で俺に話しかけて来る。
「うふ。豚に「この子は殺さないで」って頼んだのよ。」
「気に入ったって言ってね、あの豚喜んでいたわよ。喜ばす気なんて全然なかったけど。少し悔しいわ。」
「でも、眠りの魔法が解けた後アンタが暴れるし叫ぶから強い麻薬を入れられて、目を覚まさなくなったのよね。」
「アンタが死んでしまったら、あの豚を殺そうと思っていたのよ。そうじゃなくても殺したいわ。」
「久々に見つけた可愛い子、まだ何もしていないし…ホント良かった。」
何か気色悪い事を言う…。避けたくても動けない。
額を撫でられた。普通の人間の手をしている。少し温かい。
「どお?痛くない?」
痛くないけど、体が動かない。声も出ない。
ガチャ…
扉が開く音がした。
小さく「またね」と言われ俺の頬にキスして悪魔は消えた。
入って来たのはカシエルとサンダルフォン。
押しているカートには何か色々載っている。
サンダルフォンが元気な声を出した。
「おむつの交換だよ!ミカエルちゃん!」
ガバッとブランケットを剥ぎ取られ手際よく交換される。
恥ずかしくて死にそう。せっかく起きているのに目もあけられない。
生きているから排泄はする…分かってるけど恥ずかしい。
二人でほぼ全裸の俺を清拭してくれる。生き恥を晒す俺。
俺の腕を拭いてくれているサンダルフォンがカシエルに声を掛けた。
「カシエル…悲しいの分かるけど、元気を…。」
言いかけて口ごもった。
「元気なんか出ないよね。ここで思いっきり泣いちゃいなよ。僕と寝ているミカエルしかいないんだから。」
俺の胸元拭いているカシエルの口から嗚咽が漏れ、温かい涙がぽたぽたと落ちて来た。
「止められなかった…。俺は止めれたはずなのに…。」
計算高いカシエルが泣くなんて何かあったのか?
泣きじゃくる彼にサンダルフォンが珍しく普通の事を言う。
「カシエルのせいじゃない。強いて言えば全部、豚が悪い。」
俺の腹の上で長いもふもふした赤毛とブラウンの巻き髪が揺れる。
サンダルフォンが顔を押さえて泣いているカシエルの頭を撫でる。
カシエルが顔を押さえて苦しそうに彼女の名を呼び続けた。
「レリエル…、レリエル…、レリエル…」
「まだ生きているかな?生きていれば助けてあげたいけど…。」
俺が眠っている間に何が起きたのかは分からないけど、彼女の生死に関わる事件が発生したことが分かった。
話を聞こうにも口すら動かない。
高圧的な物言いをする彼女。でも誰よりも面倒見が良くて優しい。
俺が悪魔に捧げられたことで彼女は助かったんではなかったのか?
もうすぐ誕生日を迎えて解放されるはずだったのに…。
二人が去ってほどなく、また悪魔が現れた。
良いことを聞いた風な顔をして上機嫌だ。
口元に指を置き蠱惑的な極上の笑顔を浮かべる。
端正な口元から牙を覗かせて、ゆったりと声を発した。
「神様は願い事を聞くだけで何もしてくれないけど、悪魔は対価を払えば願いを叶えてくれるのよ。」
悪魔に願い事などするなど俺の信条にはありえないことだったが、この時の俺には選択肢がなかった。
軽薄な口調で話す男は『優しい悪魔』と言われる『セーレ』という悪魔だった。
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