…主よ御許に近づかん… -シュミット伯爵邸　北東部　物置小屋- イルハン王国、アッシュフィールド国王を支える重鎮の一人としてシュミット伯爵の名も上げられる。 かつては国王陛下の妃となる姫を嫁がせたこともある古くからの名家。 子孫へ長らく受け継がれている私財は他の貴族と比べ物にならない。 美しき栄光の数々と同じほどある、誰にも非難されることも無く行われていた非道。 主の命令に背くことは死を意味する。 例えどんなに正当な理由があったとしても。 長い手足、長身の黒服を身に纏った青年が足早に地下牢へ続く抜け道へ入り込む。 じめじめと薄暗く異臭漂う空間。青年の顔に激しい嫌悪感が現れている。 何体もの乾いた骸が点在する。 ここは入ったら最後、生きて地上へ戻ることは叶わない場所。 死んだとしてもその場で朽ち果てる運命。 燭台を手にやや面倒くさそうに地下牢へ続く抜け道を駆けていく彼。 地下牢は有事の際に使用される抜け道へ繋がっている。抜け道の出口は屋敷北東部の朽ちかけた物置小屋。 １００年は使われていないさび付いた隠し扉を蹴破っての侵入。 入ってすぐに古く変色した髑髏に出会う。別段驚くこともなく邪魔だと蹴飛ばした。 細く長く続く抜け道を進むにつれて亡骸の鮮度が高くなっていく。 踏みつけた亡骸から腐敗し異臭放つ体液が飛び散った。汚れるのが嫌な彼は、長い脚で跨いで進んで行く。 結構な距離を走って、青年の顔が曇る。いよいよ本気で面倒くさくなってきたようだ。 走った距離から推測すると本邸の真下のに隠されている地下牢にかなり近い。 壁にもたれかかる男の亡骸から放つ強烈な腐敗臭に鼻を覆った。 今までで一番新しい遺体。かなり痛めつけられていて激しく損傷している。 拷問の末に放置されたと見られる。 殺しはせずに散々嬲った後に、この薄暗い不浄な場所に放置される。 絶命するまで続く長い苦痛は如何程だろう。 死の安寧を施さず、生きながら死を願わせる残酷。 彼が救出を依頼された少女は４日前にこの地下牢へ投獄された。 主人へ刃物を向けた罪での投獄。 青年が小さく溜息をついた。無駄な事をしているのではないかと考える。 少女は間違いなく拷問を受けている。時間も経ち過ぎている。 即座に死を与えられてはいないと思われるが、か細い少女の体で持ち応えられているか。 息をしていない可能性が高い。遺体を連れ帰るのは救出に当たるのか？ 鼠の泣き声は聞こえるが呻き声は聞こえない。 青年の足が止まる。抜け道が終わった。 目の前にあるのは地下牢と抜け道を繋ぐ重い扉。 途中、生きているものもおらず、少女らしき遺体もなかった。 死んでいても、半殺しであっても最終的にはこの扉の向こうからこちらへ放置されるはず。 ここに放置されていれば、こっそり連れ帰ろうと思ったが少女がいない。 遺体がないことから扉の向こうで拷問を受けている可能性が高い。 拷問を受けているということは生きているということ。 生きていることは喜ばしいが、少女の肢体はどの様な変貌を遂げているのか。 それは見るに堪えない痛ましい哀れな姿。 青年が深い溜息をついた。琥珀色の瞳でじっと扉をみつめる。 彼は人間体に変身している『優しい悪魔』と言われる『セーレ』。 ソロモン72柱の悪魔の一人。醜い姿が多い仲間達とは違い美しい青年の姿をしている。 その姿のせいか、優しい性質を持ち、召喚者の望みをなんでも叶えてくれるという噂が広がり迷惑している。 彼は、最近出会った可愛い子のお願いを対価を頂くことを条件に請け負った。 燭台を持ちながら腕を組んでしばし考えた。 対価は欲しい。でも楽して欲しい。 抜け道に落ちている少女をこっそり回収するのが一番楽な方法だったのに。 肝心の少女が居ない。 この扉の向こうに行くということは、今の変身した人間体で飛び込んでも、悪魔である本体で飛び込んでも大騒ぎになる。 可愛い子の気を引くために請け負ったけど、面倒すぎる。 良い結果など得られないのに。 強い麻薬で声も出ないから「助けてきてあげようか」と聞いたら唯一動く碧い瞳で返事をして来た。 その様子が可愛くて、ここまで来たけれど…。 額を強く抑えてポツリと呟いた。 「…行くわ。対価が欲しいから。」 彼の琥珀色の瞳が金色に変わり獣の虹彩が現れた。 破壊する為、重い扉に手をかざす。 その刹那、扉の向こうに人の気配がしたので彼は慌てて蝋燭の火を消した。 暗闇の中、鍵を開ける音がして開かれた扉からドサッと何かが投げ込まれた。 その何かから小さな呻き声と衣擦れの音が発せられた。 …主よ御許に近づかん… 讃美歌の一節が歌にならない声で呟かれた。 それは彼が探していた少女のものだった。