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第70話 〔長い夜の秘め事〕⑭ そして誰もいなくなった

「アルドロス…、少しで良いから目を覚ませ…。」 ザリタスの悲痛な声が延々と聞こえるドアの前、僕と「枯れない薔薇」のロザリーとエルダはジッとその声を聞いている。 昏睡に入って、もう三日は経ったのだろうか? アルドロスに付きっきりでザリタスは部屋から出て来なくなった。 盛夏も過ぎようとしているとはいえ暑い室内、ドア前で聞いている僕も体力が消耗してきた、かと言って二人が心配だからこの場所を離れることは出来ない。 暑くて辛いけど大切な仲間だから、治って欲しいと祈るだけの時間が続く。 時間を見て涼しい場所に保管してある水を差し入れに行くと、少年姿のアルドロスは死んだように眠っていて一向に目を覚まさなくて悲しくなった。 その力なく脱力している手を頬に当て、ザリタスがずっと目を覚ますように呼び掛けている。 やっと涼しくなった深夜になって、ウトウトしかけた僕の耳にザリタスの歓喜の声が届いた。 ロザリーとエルダと扉を少し開けて覗いてみると、薄っすらだけどアルドロスが目を開けていた。 虚ろな目をしているアルドロスの両頬に手を当ててザリタスが必死に呼びかける。 「アルドロスっ!、契約をしろ、今すぐに!、命が消える前にっ!飲むんだボクの血をっ!そして声が出せないなら頷くだけでも良いし、唇を動かすだけでも良いボクの眷属になること同意して欲しい!」 白シャツの腕を捲り、右手握ったナイフで左手首を切りつけると赤い血がポタポタと溢れ出して来た、溢れる血を押し付けられたアルドロスの口元が赤く染まっていく。 静かな部屋に響く悲痛な訴えに返事は返って来ない。 海が見えるアルドロスの部屋、夜だから窓から見える海の色は空の色と同じ黒に近い群青色、月の光が波の動きと共に揺らめいている。 月明りだけの暗い室内、輝いているのは、いつの間にかに赤色に変わったザリタスの瞳だけ、答え無き緑色の瞳に「飲め、同意しろ」と何度も呼び掛ける。 ベッドの上で白い寝具に深く身を預け、口元を血で濡らしたアルドロス、緑色の瞳がようやく意志を持ってザリタスを見つめた。 力なき腕が震えながら血に染まった口元を拭いザリタスを拒絶する動きを見せた。 「どうして?良い提案だろ、ボクの眷属になれば永久に生きられる。今度はもっとうまくやろう、売春宿なんかじゃなくって違う方法で君の好きな困っている人を助けるをしてみようよ。君の命令には何でも従うし、絶対に逆らわない、約束する。」 「…もう…、いい…。」 「良くない、良くないから、君いなくなるとボクがつまらない。」 「もう、いい…、君は君の贖罪を…果たせ…。」 「贖罪?贖罪など、どうでもいいよ。」 「悪鬼の姿、大き…く、前に見た時より、大きなって…いた。」 「君と居ることで大なり小なりの罪を重ねて来たからね、しょうがないよ。」 「すまない…。」 「謝らなくても良いよ、悪いと思うならボクと生きて!」 「すまない…。」 「全部が君を喜ばせたいと思ったボクが自分で決めたこと、謝るなっ!」 「ザリタスは…、やさしい誰かと、幸せになれ…。」 この言葉を最後に意識を消失したアルドロスは二度と目を覚まさなくなり、翌日の昼には呼吸を止めた。 そして、アルドロス冷たくなった手をずっと握っていたザリタスは、暫くして姿を消した。 漁村の小さな家に残された僕達、最初に「枯れない薔薇」のロザリーは白い小鳥になり小さな体を震わせて動かなくなった、その数日後エルザは黒猫になって血を吐きながら死んだ。 「枯れない薔薇」とはインキュバスであるザリタスの眷属になったことだとロザリーの後に死んだエルザは教えてくれた、そして主であるザリタスが居なくなった自分達は本来の姿と寿命に戻るしかない、もしザリタスが戻ってきたら「大好きだったわ」と伝えて欲しいと言づけられた。 誰も居なくなった家で、一人になった僕は自分で赤毛を撫でながら、彼が僕を撫でる時に言っていた言葉を思い出した。 「リリィは、可愛いね。ずっと可愛いのかな?」 僕への問いかけだけど、インキュバスで変わることの出来ないザリタスが、変わって行くことが止められない人間のアルドロスに不変性を求めた言葉だと思い至った。 「ずっと彼を好きでいてあげてよ。」とアルドロスは僕に言っていた。 僕は彼をずっと好きでいるし、好きだから優しくも出来る。 後は可愛く、ずっと可愛いままでいられたら、ザリタスは戻って来て赤毛を撫でくれるかな? 可愛くいられる方法を考えた末に、寝具に付着した乾いたザリタスの血を舐めて呟いた。 「僕はザリタスの眷属になることを同意する。」 漁村の小さな家で、ずっとずっとザリタスが戻って来るの待っていたけど、彼が戻って来ることはなかった。

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