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第31話

 片手を額に(かざ)した。きょろきょろしたいのをわざと我慢しながら一歩、踏み出す。  遠路はるばるやって来た理由は静かな場所で弁当を食べたかったからで、それ以上でも以下でもない。  目的は断じてそれだけで、会えなくてもがっかりしないったら、しない……って、誰に? 「誰にって、誰ってことないもん!」  頭をぶんぶん振れば振るほど、ことことと心臓が走りだす。  晴れてきた、昼休みは屋上に行ける、と思ったときからわくわくしっぱなしだったのが正直な気持ちだ。だが期待外れに終わるかもしれなくて、祈るような思いで進むにつれて掌が汗ばんでいく。  日陰にできた水たまりが消え残り、虹を映して七色にきらめく。その傍らに敷いたヨガマットの上にお目当ての人物──当麻の姿があった。  ただし腹這いになって水鏡を覗き込むさまは、近寄りがたい云々という以前に異様な雰囲気を醸し出す。  空良は知恵をしぼり、答えにたどり着いた。当麻は、きっと夏の浜辺で甲羅干しをしている気分を先取りしているのだ。  あるいは知的好奇心を刺激されて、水たまりの中に生息する微生物を観察しているのかもしれない。  背後から忍び寄りついでに手で目隠しして、だぁれだ、と作り声で囁きしだい冷たい空気が流れそう。  トートバッグを抱えなおすと、マル秘扱いの紙袋が弁当箱にこすれてがさつく。その拍子に、小学生のころに読んだ子ども向けのギリシア神話をふと思い出した。  ナルキッソスという美少年が呪いをかけられて、泉に映った自分に恋をして、泉の(ほとり)に釘づけになったあげく焦がれ死にして。  ナルキッソスの変貌バージョンの水仙が風にそよぐところを描いた挿絵と、当麻がなぜだかダブって見える。  当麻は自分の世界に浸っていた、水仙に変じても本望、という勢いで浸っていたかった。  だが英気を養うのにもってこいの水鏡に、人影がちょろちょろと映り込んでぶち壊しだ。ヨガマットに爪を食い込ませて、十、数える。  よそゆきの笑顔をこしらえたうえで振り向くと、おジャマ虫こと小沢空良は、やけにあたふたとトートバッグを背中に隠した。

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