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第32話

  「やあ、きみか。予算委員会以来だね、元気にしてたかい」 「ほっ、本日はお日柄もよく、また生徒会長さまにおかれましてはご健勝のご様子、まことに喜ばしいかぎりです……痛っ! ベロ、嚙んじゃった」  ウサギがヒト語を話しだしたと見まごうばかりのトンチンカンぶりに、時空がひずむ。沈黙が落ちた。眼下に広がる港で出航を告げる銅鑼(どら)が鳴り、それを破った。  当麻は、たまらず噴き出した。大笑いしたツケが積もり積もって将来、皺くちゃのムサ()という形で回ってくる。  ゆえに桑原、桑原、と日ごろは口角をあげる程度に抑えている。それが鷹揚な人柄との人物評へつながっているにもかかわらず、笑いころげた。  そのさい隆起した名残をとどめるスラックスの中心があらわになり、さりげなくブレザーの裾をかき合わせながら居住まいを正した。 「丁重な挨拶を痛み入る。百万石の殿さまの気分を楽しませてもらったよ」  空良はトートバッグの持ち手をよじり合わせた。時代劇に出てくる平民が憑依したような科白を吐き散らすなんて、ドジっ子認定だ。そう思うと頬が火照り、そのくせ氷漬けにされたようにカチンカチンに固まった。 「顔が急に真っ赤になった。体調が思わしくないようなら保健室まで付き添っていこう」  額に掌があてがわれた。スイッチオンとばかりに、空良の頭の中では甘美な旋律と雷鳴のような轟音が同時に鳴り響いた。  俗に手が冷たい人は心が温かいという。俗説が正しいことを裏づけるように、ひんやりした掌にぐいぐい額をすりつけたくなる衝動に駆られるのと比例して、原因不明の息苦しさが増す。 「熱いな、呼吸も荒い。担任に言って、今日はもう早退(はやび)けしたまえ」  掌に代わって案じ顔が近づいてきて、額と額がくっついた。 「だ、だいじょぶ……」  義父が作成したオナホール──触手くん1号(仮)の威力にひれ伏したとき以上に鼓動が速まり、空良はあえいだ。  検温のやり方にいささか問題があるからといって、気づかいをありがたく思うのが正解の場面で困るのは変だ。  なのに制汗スプレーのほのかな香りに鼻孔をくすぐられると、地平線の彼方まで走って逃げたくなる。ゴムチューブでブルーインパルスから吊り下げられて、アクロバット飛行にきりきり舞いしているような感覚を味わう。

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