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第60話

 よりによって視察団が訪れたときにエッチな感じに乳首が痺れるなんて。  空良はシャツを皺くちゃにしながら、胸元で腕をバッテンにした。  ちい兄ちゃん助けて、と視線で訴えても知らんぷりを決め込まれて、かといって下手にSOSと叫ぶと変てこな声が出ちゃいそうで唇を嚙みしめる。  その間も滑舌矯正シールを貼ってもらった乳首はおろか、もう片方の粒まで肌着にこすれて尖りはじめる気配を見せる。尻でいざって後ろにずれると、そこに当麻がつかつかと歩み寄ってきた。 「主役だってね、がんばっているかい」  にこやかに話しかけられて、ぎくしゃくとうなずいて返す。空良は思った。当麻の声はチェロの音色のように深みがあって、窮地に陥っている現在(いま)は、むしろ毒性が強い。 「会長だろうが部外者立ち入り禁止っすよ。はい、出てって出てって」  和田が丸めた台本を引き戸を示すと、 「タメ口を叩くな、身の程をわきまえろ」  執行部の面々が気色ばむ。教室の中を流れる不穏な空気とリンクするように、空がにわかに(かげ)った。  空良は机にすがって立ちあがった。乳首を襲うぷるぷる感が薄らいだ隙に改めて挨拶しようとすれば、当麻も同時に何かを言いかける。やり直しても、またもやタイミングがかち合って、それを繰り返すこと数回。  身ぶりで話す順番を譲り合い、お互い照れ笑いを浮かべると、透明なドームで外界から隔絶されているように、何人(なんびと)たりとも割り込む余地はない。  ただし本人たちにまったく自覚がないのは困りものだ。小学生のカップル以上に初々しい雰囲気を醸し出すさまは、好むと好まざるとにかかわらず騒動の種を播く。  その顛末は次章にて。  ともあれ当麻は無意識のうちにネクタイをゆるめた。時間をやりくりして、なおかつ視察にかこつけて足を運んできた甲斐があった、と思う。  癒やしキャラの小沢空良に接すると、ストレスからくる眼精疲労および肩こりが改善される。ためらいがちにだが、鏡に次ぐ精神安定剤と認定する意味を込めて、細い肩に手を載せた。

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