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第90話

  「先輩も、ちい兄ちゃんも、いいかげんにしなさいっ」  空良は両腕を広げて、勇躍、ふたりの間に割って入った。そこに折悪しく両方向から拳が飛んできて、よけそこねた一発が鼻をかすっていった。 「痛ぁ……」  咄嗟に鼻を覆った掌が、ぬらつく。頭がくらくらして、しゃがんだのも束の間、 「てめぇ、殺す、八つ裂きにしてやる!」  (くう)を切って当麻へ襲いかかるキックを足にしがみついて食い止めた。 「お願いだから仲直りして、ねっ?」  そう、ふたりに向かって懸命に笑いかけるはしから鼻血にむせた。 「興奮して暴力に訴えるとは慙愧(ざんき)に堪えない。巻き添えを食わせて、すまない」  深々と頭を下げる当麻に、空良はにこやかに首を横に振って返した。差し伸べられた手にすがって起きあがると同時に、うわぁ! な出来事が起こった。  それは通算三回目の姫抱っこ……。 「こいつにさわるな、っってんだろうが」 「どきたまえ」  大和は殺気をみなぎらせて立ちはだかり、当麻はそんな彼に王者の威厳をたたえて命じる。モーセが杖をひと振りすると道を拓いた紅海のように人垣が割れ、当麻は東校舎と中央校舎を結ぶ渡り廊下を大股で突き進む。    高級車の乗り心地でさえ、この素敵に強靭な腕の中に躰がすっぽり収まる感じに較べたら、駕籠(かご)以下だ。空良はシロップに浸っているような思いで、口を真一文字に結んで先を急ぐ当麻を仰いだ。  鼻がずきずきして、だが抱き運んでもらえるという特典がついたぶん、すごぉく得をした気分だ。 「先輩、先輩、重くないですか(鼻が詰まっているせいで実際にはすべて濁音だ)」 「楽勝だ。それより、きみは勇敢なうえにとてもキュートで、いや、だから……本当に申し訳ないことをした」 「へっちゃらです」  と、応じて白い歯をこぼす。当麻の闘いぶりはバレエダンサーのような優美さを兼ね備えていて魅了された。ぽわんと余韻を楽しんでいるうちに意識が遠のき、気がつくと硬いベッドに横たわっていた。  薄手のカーテンが張り巡らされていて、ここは保健室。先輩に、さしずめ担架の役をやらせてしまったお礼を言わなくちゃ。跳ね起きると眩暈(めまい)に襲われて、ブランケットごと床にずり落ちた。

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