92 / 137

第92話

 目をあけさえすれば、たちどころに正体が判明して、なのに塗り固められたように瞼が重い。  まごまごしているうちに、やわらかいものが唇に触れた。薔薇の枝をうっかり摑んだようにあわてて離れていったのも束の間、舞い戻ってくる。  おずおずと、それでいて今度は形を写し取ろうとするように、しっかりと唇に押し当ててから名残惜しげに離す。  圧が薄れたのにつづいて、カーテンが揺らめいた。すらりとした後ろ姿が処置室のほうへと消え去り、忍びやかな足音が遠ざかっていく。  空良は、がばっと飛び起きた。寝ぼけて見間違えたんじゃない、あの後ろ姿は、絶対に当麻先輩……。  肋骨が砕け散ってしまいそうなくらい、心臓がバクバクする。ふっくらした唇は、ぱくぱくする。  小刻みに震える指で唇をさわる。一回目はタンポポの綿毛がくっついた程度に淡々しくて、二回目は(はね)を休めるトンボのようにしばらく留まったものは唇……だと思う。  ひょっとして、ひょっとするとキスされた、えぇーっ!? 「落ち着こう、落ち着かなきゃ」  深呼吸をすると、微かに漂う消毒薬の匂いにむせた。咳き込むとなおさらわたわたして、唇を撫でたり、つねったりする手が止まらない。  キス泥棒なんて、およそ当麻らしくない行動に駆り立てたものは、なんだったのだろう。シチュエーション的にいって眠れる森の美女ごっこ?   それとも、ちょっとした気まぐれ?  たかがファーストキス、されどファーストキス。  ネンネの空良にとっては人類が木星に到達したに等しい大事件で、頭のてっぺんから爪先まで真紅に染まる。しばらく席を外していた養護教諭が戻ってきたとたん精密検査を受ける必要があるかもしれないと案じ、校医に指示を仰ぐのも当然で、空良はオーバーフローを起こしてぶっ倒れた。

ともだちにシェアしよう!