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3−37『ボロアパートとワンピースと“アタシ”』

 アタシの生まれ育った家は、冬はどこからか隙間風が吹き込み、夏はどこからともなく雨漏りがする、ボロアパートだった。  住めば都というほど割り切れるものでもなかったけれど、他の家を知らない子供はそれが普通だと思い込むものだ。  一DKの狭く薄暗い部屋で母とアタシ、二人で暮らしていた。  片親で、母は水商売の女だった。  「ママ、朝ごはんどこ?」  そう呼びかけて返事が返ってくることはまずない。  襖をほんの少しだけ開けると、カーテンが閉め切られた暗い寝室の布団で母が寝ている。  「ねえ、ママ」  「そこにパン置いてるでしょ」  ダイニングの中央に置かれたとっ散らかったテーブルには、食べ物は見当たらない。  だから仕事帰りで疲れている母をわざわざ起こして訊ねているのだけれど、彼女はほとんど聞こえていないようだった。  「ママ。パン、ないよ」  「じゃあ他に適当に見つけて食べな。眩しいからそこ閉めて」  同じ水商売に就いた今となっては、こういうときの母は機嫌が悪いというよりも、ただ二日酔いでしんどかっただけなのだと分かる。  最初から父親はいなくて、学もない女が一人で子供を育てる。それだけでかかるプレッシャーは凄かっただろう。  ただ、二桁にも満たないガキんちょがそれを理解するのは難しい。  幼いアタシはこっちを見もしない母親に恐怖と一抹の寂しさを覚えながら、そっと襖を閉じた。  その日は戸棚に入っていたクッキーを小袋一つ、三枚だけ食べて、小学校へ行った。  母は子育てにかかるお金だけはきちんと工面する人だったので、着る物や持ち物に困ることはなく、誕生日には流行りのゲームも買ってもらえた。  だから学校では普通の家庭の子とほぼ遜色ない生活ができていて、ただ家に帰るとたまに、寂しい思いをするだけだ。  アタシは決して愛されていないわけじゃなくて、母も必死だったのだ。  大人の大変さを完全には理解していなかったけど、そうして愛情が伝わる部分もあったから、投げやりでしょっちゅう怖い母でも好きだった。  その頃から『アタシ』は『アタシ』であった。  夜職の母は、夕方に出勤して夜中まで帰ってこない。  学校から帰ってきたアタシは、ランドセルを放り出すやいなや、朝は『開かずの間』になっている寝室に入る。  一日中カーテンが閉め切られて暗い部屋の中に忍び込むと、すごく悪いことをしている気分になって落ちつかない。  誰もいないのに忍び足になりながら、奥に置かれたタンスの、母の領域になっている上の引き出しを開けて、白いワンピースを引っ張り出した。母親の一番お気に入りの私服だ。  男の子らしく暗い色で抑えられたTシャツと短パンを脱ぎ捨てて、そのワンピースを頭からかぶる。

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