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 「いくぞぉ、ナツキ投手登板~!」  あいつが丸めた服を右手に持ち、大きく振りかぶったのを見て何をしようとしているのか察した。  「やめて!!」  「うわっ!」  タックルする勢いで兄貴に取りすがったアタシは、服を取り返そうと躍起になる。  「んだよ、離せ! バカ!」  あっちもむきになって服を離さず、アタシを取り押さえようとマウントを取ってくる。上下反転しながら暴れるうちに川のすぐほとりまで転がっていき、お互い顔も体も泥まみれになっていた。  「返してよ! ママがくれた服っ、返して!」  「こいつっ……!」  拮抗していた力は、兄貴側の二人が参戦してきたことで傾いた。  「おい、こいつ抑えろ!」  二人にうつ伏せに身体を抑えられて、顔を地面に擦りつけられる。  服を取った兄貴は息を荒くしながら、血走った目でアタシを見下ろした。  「ふざけやがって……殺す、お前マジ殺す」  「うっ!」  頭を蹴られる。裸足でも軽い脳震とうを起こして、視界がぐらついた。  それでもまだ、白いワンピースに向かって、手を伸ばした。  が、その手はあっさりと叩き落とされて、手の甲を膝で押し潰される。  「ぐっ……!」  「殺す」  今日何度目か頭を掴まれて、水辺に持っていかれる。  川の水は茶色く濁っていて、木の枝やプラごみがとめどなく流れている。そこに顔を押しつけられて、泥水が押し寄せてきた。  「うぷっ」  『やめて』と言おうとした口から、がぼがぼ、と泡がこぼれていく。  バタバタと藻掻く手はむなしく空を切るばかりで、兄貴に起こされるまで呼吸ができなかった。  「ぶはっ」  水中から顔を出されて激しく咳き込む。  肺にめいっぱい酸素を取り込んだところで、また水に沈められた。 ――殺される。  今度はさっきよりも長くて、耐えきれず開いた口から大量の水が流れ込んできた。水の流れは急で鼻にも入ってくる。  息ができない。苦しい。痛い。 ――死にたく、ない…………!  そこから後のことは、正直よく覚えていない。  結論から言えばアタシは殺されることはなかったし、親にこのことがバレた様子もなかった。  だから兄貴がなぜ途中でアタシを解放して、その場に捨てていったのかは分からないけど――おおかた意識を失ったアタシを見て、他の二人がひよったんだろう。  気付いたときには誰もいなかった。  「……けほっ」  目を覚ますと、鼻と喉がヒリヒリした。  霞む目に青い空が能天気に映る。  「……あ」  思い立って首を横に傾けると、濡れた髪が目元に貼りついた。  「あ」  右手に、どぶ色に染まったワンピースが後生大事に握られていた。  アタシは泣き喚く気力もなく、ただものすごく疲れていた。 ――強くなりたい。  強くならなきゃ、大切なものも守れない……。  このときアタシは、弱々しい自分を捨て、強く生きることを選んだ。 ・・・  幸いにもアタシは男だったから、体が成長するにつれて義兄を――そのうち義父も殴り返せるような筋肉をつけていった。  高校に入学する頃になって、洗面所の鏡の前に立ったアタシは、自分の身体を眺めた。  男らしい広い肩。  柔らかみのない胸に、くびれに乏しい厚みのある腰。  自分が求めていた『強さ』の象徴みたいな姿だった。  実際人よりも発育がよくてそういうセンスがあったからか、本当に強かった。  成長期を迎えてからは喧嘩で負けなくなったし、外見だけで周りの人間はある程度警戒する。  子供の時に比べて、これほど楽なこともない。  「……かわいくないなぁ」  ボソリとつぶやく。  でも、搾取されるくらいなら。強くて可愛くない方がましだ。  強くなると、何よりも大切な『可愛さ』が失くなってしまう。  だけど、強くないと大切なものを守れない。  そんなジレンマを抱えて、アタシは強くなることを選んだ。  母の前で白いワンピースを着て踊った自分はもういなかった。

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