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3−66 『八年前のこと』
頬にかさついた感触があり、割れ物に触れるように数度撫でられる。目を開けずとも、あいつの指だと分かった。
如月はほとんど気配を発しなかったが、微かに温度を感じた。特に唇のあたりに、相手が近付くのを感じる。
――このまま放置すれば、取り返しのつかないことになる。
『伊吹……』
名前を呼ばれたとき、言うことを聞かなかった瞼がようやく重い腰を上げた。
『……ん?』
如月に呼応するように声を零すと、驚いた顔が伊吹を見下ろしていた。
そしてはっと息を呑んだが、その場から動けずに固まる。
古びた木の天井が視界に広がっている。
その中心に、蛍光灯の光を遮るように如月がいた。
八年前の彼はまだ若く、今と違ってけったいなサングラスはかけておらず、茶髪を後ろに流していた。
在りし日の如月が自分を見つめている。
『伊吹ちゃ……』
『なんでお前、こんな近く』
何が起こりかけたか知っていたはずなのに、まだ酔いが残っていたせいかそんな質問をした。
その質問に対する返事はなく、愕然とした顔があるばかりだったが――。
自分はそれを間近で見て、気持ち悪がるでもなく(ああ、美冬はこんな表情でも良いツラしてやがんだな)と頭の片隅で思った。
端正な顔には不安や焦燥だけじゃない、妙な熱っぽさが浮かんでいる。
――なんで自分に向かってそんな表情をするのか。
そんな、泣きそうな顔をしているのか、分からない。
いまにも触れそうな距離に互いの唇がある。
……これは違うだろ。
『これ以上は駄目だろ』という警告が内に響いた。
『伊吹。おれ……おれ――――』
どうしてか嫌悪感のようなものは感じられないのに、それが却ってまずいことのように思われる。
ぼうっとしながらもどこかで焦った伊吹は、いつも通りの二人に戻れる言葉を探した。
関係性を変えてはいけない。
これまで通りただの腐れ縁で、普通の友達でいなければ。
そのとき、自分は何を口走っただろうか。
場を濁すため、冗談の一つでも言おうとして――?
「……“罰ゲームか?”」
八年前の記憶を全て思い出した瞬間、伊吹は口元を手で覆っていた。
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