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「お客様」
考え込んでいると、上から声が降ってきた。
はっと顔を上げてみると、店主がコーヒーポットを手にして立っていた。
「もう一杯いかがですか」
「あ、ああ……ありがとう」
伊吹より二回りは年上だろう壮年のマスターを見上げて、ふとこの心境を相談してみようかと思った。
が、すぐ思いとどまる。
(いい年した男が、付き合ってもない相手との恋愛相談なんか)
馬鹿げている、と自嘲した伊吹に。
「今日は、ミフユさんとご一緒ではないんですね」
「は?」
マスターがコーヒーを注ぎながら零した名前に、伊吹は目を丸くした。
「あいつを知ってるんですか」
尋ねると、人の良さそうな笑顔がはい、と答えた。
「ミフユさんはうちの常連さまですから。それに、よく差し入れなどもくださるんですよ」
「常連……」
「私も、仕事終わりにあちらのバーへ飲みにいくことがありましてね。お互い行き来する仲で」
「顔が広いな、あいつは」
微笑を漏らすと、店主がポットを置いて尋ねてきた。
「お客さまもあの方のご友人で?」
カップに半分ほど注がれたコーヒーから、白い煙が立つ。
それを眺めながら伊吹は答えた。
「そんなもんです。
最初は向こうが強引に来たんだけどな……途中で離れた時期もあるけど、気付けば、ずるずる繋がったまま十年経ってやがった。腐れ縁だ」
わざと突き放すような口調で言うと、「人の縁とはそういうものですよ」と笑われた。
「無理に繋ぎ止めようとする仲よりも、なんとなく続く関係のほうが息が長いです。年寄りの経験からしますとね」
年季を感じさせる笑顔に、やはり尋ねてみたくなった。
「離れどきだと思っても切れねえ縁って、なんですかね」
自分よりいくらも先を行っていそうな男は、やや意外そうな顔をして、それから笑みを深めた。
「心底離れたくないんじゃありませんか。
『離れるべきだ』とか、『そうするのが得策だ』とか、そういった理性では抑え込めないほどに」
妙に気恥ずかしくて、足されたコーヒーに口をつける。
ブラックだが思ったより苦くなく、ほんのりとした酸味が走った。
「ミフユさんは、魅力的な方ですからね」
べつに如月の話じゃない、と否定するのは簡単だったが、そうする気にならなかった。
漠然と、ここでは何かを取り繕う必要はないと感じる。
「あの人には、紳士のように親切で頼もしいところもあれば、娘さんのように愛嬌があって楽しいところもある。持って生まれたものでしょうね」
持って生まれたもの。
元から備わっている、その人特有の個性で、あとからは誰にも変えられないもの――だ。
男らしさがあり、女らしさがある。
どちらでもあって、どちらだけでもない。
それが、如月美冬という人間なのだ。
言われてみれば、極めてシンプルな答えだった。
バイクで海沿いの道を突っ走りながら、悪友の自分に笑いかけてくる彼や。
【大冒険】のオネエたちとかしましい掛け合いをする姿を思い浮かべ、伊吹は微笑んだ。
(俺にとっては、どっちだってただのアイツだ)
「……ああ。縁を切るには惜しいですよ。面白い奴だから。
たまにすっげえ面倒臭ぇけど……そこがかわいいとこでもあるから」
口にして、やっと答えが見つかった。
「店主さんよ。これ、ここの会計。先に渡しとく」
財布を出して、札を数枚マスターに渡す。
どこまでこちらの事情を察しているのか、彼はニコニコと笑顔を浮かべている。
「釣りはいらねえ。これ飲んだらすぐ出るから」
「かしこまりました。お急ぎですか」
カップに注がれたコーヒーを一気に飲み干すことでその質問に答える。
席から立ち上がって、マスターに礼を伝えながら伊吹は店を後にした。
如月に出す答えが決まった。
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