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「俺は、あのままキスしてもいいって思ったんだ」
ミフユはもはや怒りも忘れて、ぽかんとしていた。
伊吹はそんな間抜け面を見つめ返して言う。
「いくら酔ってたって、他の奴だったらすぐ殴り飛ばしてたよ。
それをやらなかったのは……相手がお前だったから」
「……じゃあなんであんな、はぐらかすようなこと言ったのよ」
納得いかない気持ちで尋ねると、伊吹は自嘲するように笑った。
「俺は……わざわざ意識したこともなかったけどよ。
今までずっと普通の男として生きてきて、ようは幸せ者だったんだ。
当たり前のように同年代の女を好きになって、気持ちが通じれば付き合える。
……誰かに惚れることに後ろめたさを感じる必要がなかったんだ。
だからいざ自分がその『普通』の枠組みから外れそうになった瞬間――怖くなった」
この心身共に鋼の男が、自分に恐怖心があったことを認めるなんて。
いつになく素直な伊吹に驚かされながら、ミフユは戸惑っていた。
「あのとき俺が考えてたことは一つだ。
『どうすれば何もなかったことにできるのか』。
――それで思いついたのが、冗談を言って誤魔化すことだった。
……お前の悪ふざけってことにできれば、二人ともまたいつも通りに戻れると思ったから」
「そんな」
『そんなことで済むものか』と言いかけたミフユを制し、伊吹が言葉にする。
「分かってる。俺が甘かったんだよな。――お前の気持ちを軽んじた。
それを許せとは言わねぇけどさ……俺は臆病で、卑怯だったんだ。
男に……如月に惹かれてる自分を認めたくなかった」
伊吹がそう真剣に語るのを、ミフユは信じられない気持ちで眺めていた。
「冗談でしょ。あんたもアタシを好きだったなんて……それもずっと前から」
冗談ではありえないことは分かっていたが、そう易々と信じられるわけもなく。
すっかり玉砕する覚悟を固めていたミフユは、呆然と立ち尽くしていた。
「三度目の正直だ、美冬。
俺はお前って人間が好きだ」
恋愛的な意味で言われているとは到底信じられないが、その言葉をきくと心臓が大きく跳ねた。
「アタシはそんな……誰かに好きになってもらえるような奴じゃないわよ」
伊吹は、本人の望む通り『普通』に生きていくべき人間だ。
生き方こそヤクザだけれど、裏表もなくまっすぐな男だ。自分とは違う。
(アタシは――)
「お前は水無月とは違えんだよ」
ちょうど考えていたことを見透かされたようで、面食らう。
廃ビルで自らが水無月に叩きつけた言葉を思い出していた。
――おれもおまえも、醜い本当の自分を隠すために理想の仮面をかぶっているクズだ、と。
「そんなことない。アタシだって、偽の顔を装い続けてきたんだもの。伊吹ちゃんにそう言ってもらう資格なんて」
「お前はあの野郎とは違ぇ」
けれど伊吹は、ミフユのそれを真っ向から否定した。
「てめえは……自分に醜い部分があることを知っていて、その上で理想に近付こうと努力してるだけだ。あの野郎みてぇに自分の理想のために他人を傷付けたりしねえ。
自分の過去も弱さも全部受け止めて、正面から向き合ってる……凄ェ奴だ」
「……伊吹ちゃん」
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