180 / 191
4−50
「あのホスト野郎の言葉は真に受けるなよ。
いまがバーのママやってるからって、過去が消えるわけじゃねえ。
お前は如月美冬の虚像なんかじゃない。
過去からの積み重ねがあって、少しずつ変節してきた――紛れもなく本物の俺の相棒だ」
ミフユがなにか言う前に伊吹が言葉を繋ぐ。
「俺は、そんな相棒の隣にいたい……傍に居るのを諦めたくねえ。
俺は。
男と女両方なお前が。
男と女、どっちでもないお前が。
ただの『如月美冬』ってやつが、好きなんだ。
何だっていいんだ、お前がお前であることに変わりねぇんだから。
美冬が好きなんだから。
……これって、常識とか偏見とかごちゃごちゃ考え出さなきゃ、けっこう単純な話」
どこか照れた様子で、伊吹は頬を掻く。
「だろ。ミ、ミフユ」
「――――――」
――これは現実なんだろうか。
伊吹が自分をまるごと受け入れてくれて、その上で好きだと言ってくれた。
――始まった瞬間から諦めていた恋が、叶おうとしている。
(ああ、どうしよう。こういう時なんて言えば)
分からない。誰かに想いが届いたこと自体初めてなのだから。
ミフユは眉を震わせて――泣こうか笑おうかどっちつかずの顔のまま、
伊吹に飛びついた。
「いっ、伊吹ちゃーーーーん!!」
「どわぁっや、やめろ! 馬鹿!」
「あっ」
なんの構えもなかった伊吹に、自分が全力でぶつかっていくとどうなるか。
ミフユは、激しい水の音と天高く上がった飛沫でその答えを知った。
「寒!!!」
「アホかてめえは! 落ちるに決まってんだろが!」
仲良く足元の池に落ちた二人は、腰まで真冬の水に浸かっていた。
「やだ、鯉がびっくりしててかわいそ――じゃなくてっ、い、伊吹ちゃん!!」
「抱き着くな!!」
びしょ濡れのまま伊吹に飛びつくと怒られたが、構わずに腕に力を込める。
体が凍りそうだとか池の魚が暴れ狂っているだとか、それどころじゃないのだ。
「初めて『ミフユ』って! ミフユって呼んでくれたのね!」
「そっ……れが今の名前なんだろ、てめぇの!」
うん、うん、と何度も頷きながら彼の体を強く抱き締める。
これが現実なんだと確かめるように。
伊吹が自分と結ばれたのだと確認するように。
「どう受け止めたらいいの、おれ……っ」
スーツの肩口に顔を埋めて、ミフユは声を震わせる。
「どうもなにも、そのままだろ」
「つ、付き合ってくれる? おれと付き合ってくれる?」
伊吹は苦しそうにして「離せ」とか「組の奴らに見られるかもしんねぇだろが」と文句をつけるが、ミフユを押しのけようとすることはなく――その手はむしろ、宥めるように背中を叩いた。
「おまえ、感情が昂るとガキみてえに泣く癖やめろ」
「こんなになるの伊吹ちゃんだけだも……っねえおれの恋人になってってば」
「おま……」
「おれのもんにされてよ、伊吹」
もはや嗚咽を上げてしがみつくミフユに、伊吹が呆れたように息をつくのが聞こえる。
「言葉にしねぇと分かんねえなら、言ってやる」
あやすように背中を叩きながら、今まででいちばん優しい声で。
「それが望みなら、いくらでもてめーのもんにされてやるよ。……好きだから。お前が」
静謐な庭の中で、自分が幼子のように嗚咽する声だけが響いていた。
「ったく……クリーニング行きだろ、これ」
伊吹はずぶ濡れになったスーツを見下ろして溜め息をつく。
ミフユの白い柄シャツも濡れて肌に張り付いていたが――澄んだ池の水では、シミ一つ付いていなかった。
……かつて自分の宝物のワンピースが沈められた、あの茶色く濁った川とはかけ離れている。
あの日タンスの奥に仕舞い込んでしまった真っ白な衣装が、ようやく日の目を見た気がした。
自分が美冬であろうと、ミフユであろうとどっちでも構わない。
そのすべてを受け容れてくれる存在がいるのだ。伊吹という存在が。
「好きだよ、伊吹」
「知ってる」
温かい体に抱き締められて、二つに別れていた心が一つに溶けていくのを感じた。
(このままの自分でいいんだ……)
これまでの人生で出会ってきた、何人もの人たちの顔が浮かぶ。
とうに縁を切った義理の家族、母親。
学校の友人や教師たち。
鳳凰組から――どん底にいた自分を拾ってくれた【大冒険】のママと店の皆まで。
そしてモリリンやアキ、遥斗……水無月の姿が思い浮かぶが、何より。
「……伊吹ちゃん」
「いつまで水浸しで――んっ」
びしゃびしゃに濡れた唇に口付けて笑う。
「――ってめえ! 組長 にでも見られたら腹切るぞ俺は!」
「あはは、ごめんって。したくなっちゃったの」
顔を真っ赤にして怒る伊吹に笑いながら、その頬を手で包む。
本気では抵抗してこない手を逆の手で掴んで、もう一度唇を重ねた。――今度はさっきよりも長く。
「頭ん中、伊吹でいっぱいになりそう」
「~~そういうこっ恥ずかしいセリフを吐くんじゃねぇ」
ごめん、とまた笑って、赤くなった眦にキスをして伊吹を深く抱き込んだ。
「おれ、もう迷わないよ。
ずっと伊吹ちゃんの傍にいる。
『諦めろ』って言われても諦めないから……覚悟してよね」
そう告げると、
「上等だ」
伊吹は言って、不敵に笑った。
――ここにやって来るまで、たくさんの人に出会ってきた。
まっすぐに道を進んでいる人もいれば、自分に嘘をつくことでしか自身を保てない人もいた。ミフユ自身そうであったように。
だけどもう、自分は大丈夫だと胸を張って言える。
積み上げられた嘘の中から、自分 を見つけることができたから。
他でもない彼が、『アタシ』を見つけてくれたから。
ともだちにシェアしよう!