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 「あのホスト野郎の言葉は真に受けるなよ。  いまがバーのママやってるからって、過去が消えるわけじゃねえ。  お前は如月美冬の虚像なんかじゃない。  過去からの積み重ねがあって、少しずつ変節してきた――紛れもなく本物の俺の相棒だ」  ミフユがなにか言う前に伊吹が言葉を繋ぐ。  「俺は、そんな相棒の隣にいたい……傍に居るのを諦めたくねえ。  俺は。  男と女両方なお前が。  男と女、どっちでもないお前が。  ただの『如月美冬』ってやつが、好きなんだ。  何だっていいんだ、お前がお前であることに変わりねぇんだから。  美冬が好きなんだから。 ……これって、常識とか偏見とかごちゃごちゃ考え出さなきゃ、けっこう単純な話」  どこか照れた様子で、伊吹は頬を掻く。  「だろ。ミ、ミフユ」  「――――――」 ――これは現実なんだろうか。  伊吹が自分をまるごと受け入れてくれて、その上で好きだと言ってくれた。 ――始まった瞬間から諦めていた恋が、叶おうとしている。  (ああ、どうしよう。こういう時なんて言えば)  分からない。誰かに想いが届いたこと自体初めてなのだから。  ミフユは眉を震わせて――泣こうか笑おうかどっちつかずの顔のまま、  伊吹に飛びついた。  「いっ、伊吹ちゃーーーーん!!」  「どわぁっや、やめろ! 馬鹿!」  「あっ」  なんの構えもなかった伊吹に、自分が全力でぶつかっていくとどうなるか。  ミフユは、激しい水の音と天高く上がった飛沫でその答えを知った。  「寒!!!」  「アホかてめえは! 落ちるに決まってんだろが!」  仲良く足元の池に落ちた二人は、腰まで真冬の水に浸かっていた。  「やだ、鯉がびっくりしててかわいそ――じゃなくてっ、い、伊吹ちゃん!!」  「抱き着くな!!」  びしょ濡れのまま伊吹に飛びつくと怒られたが、構わずに腕に力を込める。  体が凍りそうだとか池の魚が暴れ狂っているだとか、それどころじゃないのだ。  「初めて『ミフユ』って! ミフユって呼んでくれたのね!」  「そっ……れが今の名前なんだろ、てめぇの!」  うん、うん、と何度も頷きながら彼の体を強く抱き締める。  これが現実なんだと確かめるように。  伊吹が自分と結ばれたのだと確認するように。  「どう受け止めたらいいの、おれ……っ」  スーツの肩口に顔を埋めて、ミフユは声を震わせる。  「どうもなにも、そのままだろ」  「つ、付き合ってくれる? おれと付き合ってくれる?」  伊吹は苦しそうにして「離せ」とか「組の奴らに見られるかもしんねぇだろが」と文句をつけるが、ミフユを押しのけようとすることはなく――その手はむしろ、宥めるように背中を叩いた。  「おまえ、感情が昂るとガキみてえに泣く癖やめろ」  「こんなになるの伊吹ちゃんだけだも……っねえおれの恋人になってってば」  「おま……」  「おれのもんにされてよ、伊吹」  もはや嗚咽を上げてしがみつくミフユに、伊吹が呆れたように息をつくのが聞こえる。  「言葉にしねぇと分かんねえなら、言ってやる」  あやすように背中を叩きながら、今まででいちばん優しい声で。  「それが望みなら、いくらでもてめーのもんにされてやるよ。……好きだから。お前が」  静謐な庭の中で、自分が幼子のように嗚咽する声だけが響いていた。  「ったく……クリーニング行きだろ、これ」  伊吹はずぶ濡れになったスーツを見下ろして溜め息をつく。  ミフユの白い柄シャツも濡れて肌に張り付いていたが――澄んだ池の水では、シミ一つ付いていなかった。 ……かつて自分の宝物のワンピースが沈められた、あの茶色く濁った川とはかけ離れている。  あの日タンスの奥に仕舞い込んでしまった真っ白な衣装が、ようやく日の目を見た気がした。  自分が美冬であろうと、ミフユであろうとどっちでも構わない。  そのすべてを受け容れてくれる存在がいるのだ。伊吹という存在が。  「好きだよ、伊吹」  「知ってる」  温かい体に抱き締められて、二つに別れていた心が一つに溶けていくのを感じた。  (このままの自分でいいんだ……)  これまでの人生で出会ってきた、何人もの人たちの顔が浮かぶ。  とうに縁を切った義理の家族、母親。  学校の友人や教師たち。  鳳凰組から――どん底にいた自分を拾ってくれた【大冒険】のママと店の皆まで。  そしてモリリンやアキ、遥斗……水無月の姿が思い浮かぶが、何より。  「……伊吹ちゃん」  「いつまで水浸しで――んっ」  びしゃびしゃに濡れた唇に口付けて笑う。  「――ってめえ! 組長(オヤジ)にでも見られたら腹切るぞ俺は!」  「あはは、ごめんって。したくなっちゃったの」  顔を真っ赤にして怒る伊吹に笑いながら、その頬を手で包む。  本気では抵抗してこない手を逆の手で掴んで、もう一度唇を重ねた。――今度はさっきよりも長く。  「頭ん中、伊吹でいっぱいになりそう」  「~~そういうこっ恥ずかしいセリフを吐くんじゃねぇ」  ごめん、とまた笑って、赤くなった眦にキスをして伊吹を深く抱き込んだ。  「おれ、もう迷わないよ。  ずっと伊吹ちゃんの傍にいる。  『諦めろ』って言われても諦めないから……覚悟してよね」  そう告げると、  「上等だ」  伊吹は言って、不敵に笑った。 ――ここにやって来るまで、たくさんの人に出会ってきた。  まっすぐに道を進んでいる人もいれば、自分に嘘をつくことでしか自身を保てない人もいた。ミフユ自身そうであったように。  だけどもう、自分は大丈夫だと胸を張って言える。  積み上げられた嘘の中から、自分(わたし)を見つけることができたから。  他でもない彼が、『アタシ』を見つけてくれたから。

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