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第4話
週に二回ある体育の授業は、四月から一度も参加したことがない。だから今日から水泳の授業が始まるなんてことは俺にとっては至極どうでもよかった。
「あーワックス持ってくんの忘れたっ! 最悪!」
「え、俺ので良ければ使う?」
「えっマジでっ?」
「おう、ぜんぜんいいよ」
「最高! 楓って本当なんでも持ってるなー」
「だ〜れがドラえもんやねんっ」
「え、何今の! おもんな! おもんなすぎて心臓ビクってしたわ」
どうせ着替える意味なんてないのに、どうして体育教師は体操服の着用を強制してくるのだろう。中学ではそもそも購入さえしなかった。
それに、周りが水着に着替える中で一人だけ体操服に着替えるっていうのも、なんだか居心地悪くて嫌だし。
「つか授業の最後テストするって聞いた?」
おそらく体育委員であろう人物が教室にそんな言葉を飛ばす。
「はっ? え? 聞いてないけど!?」
「ごめんごめん、言うの忘れてた。まー言ってても言ってなくても結果は変わらんっしょ」
「ちげーよばっかおめー、心の準備ってもんがあるだろーがー」
「ホントだよチキショー。なんか一気にやる気失せてきた、最悪だ」
「まあまあいいじゃん! どうせ初回だし、軽ーくどんなもん泳げるのか見とくだけだって」
「いやいや楓は泳げるからそんな余裕なんだろー。俺ガチでアレだもん。トンカチ」
「それを言うならカナヅチだろ」
「ぎゃはは! そっちだ!」
「バカ丸出しかって」
そっか。楓くんは確か水泳部に所属しているのだった。しかも二年生ながら部内のエースで、すでに次期部長も内定しているのだとか。……これは全部、クラスメイトの会話を盗み聞きして得た情報なんだけど。
『天は二物を与えず』って言葉は、俺は間違いだと思うんだ。本当は、多くの才能を数えきれないほどに得る人間か、全てにおいて才能が皆無な人間か、いずれかだ。
「なあなあ、針川くん」
「……っ!?」
突然、右から俺を呼ぶ声が飛んできて、肩が震えた。あわてて体操服の襟から顔を出し、声の主を確認するけど、本当は確認しなくとも解っていた。この教室に、こんなふうに馴れ馴れしく俺に声をかける人物は一人しか居ない。
「……な、に」
楓くんの瞳は戸惑う俺を映して、六月色に輝いていた。
「俺めっちゃ泳ぐの速いからさ、ちゃんと見ててくれよ」
「…………」
教室が、一瞬で静まり返るのが解った。嬉しいのに、楓くんをあんな冷たい視線に晒したくない。ごめん。ごめんね。
「ん? どした?」
「……っ、」
声が出ない。喉に雨水をいっぱい吸った泥が詰まっているかのようだ。どんどん顔に沸騰した血液が集中していく。
「あっ! 針川く……、」
固まった空気が怖くて、また俺は逃げてしまった。日焼けしたクラスメイトたちの大きな体を分け入って、教室を出る。ごめん、ごめん、こんな態度取りたいわけじゃないのに。嬉しかったのに。
足はプールへ向かわなかった。こういう時に、保健室を頼ってはいけない。でも他に行く場所がない。
会長の端正な顔が脳に浮上してくる。せっかく俺を選んでくださったのに、せっかく俺に施しを受けさせてくださっているのに、こんなに精神が脆弱では呆れられてしまうかもしれない。そしたら本当に、何を頼りにして生きていけばいいか解らない。
胸が焼けるように熱くて、涙の膜が眼球を覆う。
こんな自分、やっぱり大っ嫌いだ。
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