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第5話

 ベッドの中で、スマホの画面を光らせる。カーテンの向こう側にはもう誰も居ない。養護教諭から、冷房と電気を消して帰るように言われたけど、狸寝入りで聞いてないふりをしてしまった。  五時だ。一昨日は、会長とお食事の準備をした時間。どうして人生はこんなにもすぐに足元が掬われるのだろう。会長に会いたい。会長とお話がしたい。会長の隣で眠りたい。  でもそれが叶わないから苦しいのだ。  体を起こすと、頭がズキズキと鈍い痛みを放った。上靴を履いて、冷房と電灯のスイッチへ重い足を引きずる。教室へスクールバッグを取りに戻らなければ。 「…………」  白い丸テーブルの上に、俺のスクールバッグが置いてあった。体操袋まで添えてある。  一体誰が? なんて一瞬過ったけれど、こんなことをしてくれるのは彼しかいない。しかし信じ難い。だってここまでする理由が解らない。それとも、まさか俺は彼に罪悪感を植え付けてしまったのだろうか。だとしたらこれは償いのつもりだろうか。  ……楓くん……。  違うのに。楓くんは悪くないのに。  プールから、いつものホイッスルの音や、部員が声を掛け合う様子が聞き取れなかった。水飛沫の音すらしない。……今日は部活ないんだ。だから楓くんさえ居ないのだと解っているのに、俺は更衣室の前を横切ってプールへ繋がる階段を登った。どうしてこの足は楓くんを探しているのだろう。  やはりプールに人は一人も居なかった。塩素水の飛び散ったコンクリートはまだらに日光で渇いていて、きっと裸足で歩いたらさぞ熱いのだろう。上靴で踏みながら、自分の影を追う。プールサイドの隅にはテントが張ってあって、真下に簡易ベンチが佇んでいた。ここに座って、彼の泳ぐ姿を見るはずだったのに。そんなふうに、期待したのが良くなかったのだろうか。 「…………」  簡易ベンチに、男子生徒の制服が脱ぎ捨てられていた。遠くから放り投げたかのように散らばっている。制服だけじゃない。白いタンクトップも、見知ったブランドのロゴマークが刻まれたボクサーパンツも、そこで下涼みしてる。 「……うっ……!?」     ーー突然。  うなじに冷たいものが触れる。まるで水に呼ばれたかのように、俺は背後へ首を曲げた。 「わっ」  水面から顔だけ上げて、楓くんがいたずらっぽく笑っていた。 「冷たくて気持ちーでしょ?」 「……ぁ……」  そっか……水中に潜っていたら姿は見えない。だから気がつかなかったんだ。  楓くんは白い腕で水をかき分けながら歩き、プールサイドに肘を置いた。夏だからって調子に乗って未だに沈まない太陽が、楓くんの濡れた体をキラキラに輝かせる。思わず目を細めてしまうほど、神々しいくらい、キラキラだ。  そう、神々しいくらいに……。 「こんなとこでさ、なにしてんの?」  楓くんは俺に問いかけながら、白い歯を見せて微笑んだ。 「あ……えっと……」 「あっ、そうそう俺がスクールバッグ勝手に置いといたの! お節介だったらごめんなー」 「…………、」 「もしかしてそれの文句言いに来た?」 「ちっ違う……! その、お礼が、言いたくて……」  俺って、もしかしたら元々口下手なのかもしれない。だってそもそも今まで、一度も同級生とこうしてまともに会話を交わしたことがなかったし。いや……同級生に留まらず、ほとんど人間全員と、だ。教会で信者のみんなと軽い雑談を交わすことは稀にあるけど、最近は教会に行っていないし……。  情けない。楓くんに上手く言葉が返せなかったわけだ。周囲からの視線が怖かったからじゃなく、単純に経験が無さすぎたんだ。恥ずかしい。  また泣きそうになっている自分さえ。 「ふっ」  するといきなり、楓くんは息だけで笑った。呼吸が苦しくなる。でも笑われたって仕方がない。こんなダサい俺は揶揄われるのが当然の扱いなんだ。  ーーしかし、楓くんが続けて紡いだ言葉が俺の邪推を一蹴した。 「針川くん、やっと俺と話してくれた」 「……え……?」  涙の膜が割れてしまいそうになって、俺は焦った。  きっと舐めたらほのかにしょっぱい指が、俺の右手に絡まる。濡れてるのに何故かあったかい。 「正直ウザがられてたらどうしようってちょっとビビってたんだよなー。みんなからも『お前ぜってー嫌われてる』ってめっちゃ言われててさー」 「そ、んな……嫌いなわけ……」    「ほんとに? ……ありがとう」  どくん、と耳の奥で鼓動の音がした。楓くんの顔が見れない。脳の回線が突然ばらばらになって、そのまま変な部分同士でつながってしまったみたいに、感情がぐちゃぐちゃだ。嬉しくて、寂しくて、悲しくて、でもやっぱり嬉しい。だけど、嬉しいって言葉で表すべき感情ではないことは確かだ。  この気持ちは、一体なんだ……? 「なんかさー俺。どうしても針川くんのこと、気になって仕方なかったんだ。つい構いたくなっちゃって……それで、事情は知ってるのにわざと話しかけたりしてた。ごめんな」 「……べつに……俺も、楓くんと話したかった」  う、わ。いきなりなに言ってるんだ俺。  楓くんは目を伏せ、白いプールサイドに水滴を落とす。 「マジかー。めっちゃ嬉しい。ねえ、まだ時間ある?」 「あ、ある……」 「よっし、じゃあ一緒に泳ごう」 「え? っあ、」  突如として水中から指が伸びてきて、俺の腕を力強く掴んだ。そのまま楓くんの方向に引っ張られる。その速度は電車の車窓から見る景色より速くて、抵抗する余地も与えられない。顔に鋭い痛みがぶつかってきたのは、ほんの一秒後のことだった。  制服が塩素水を吸って、体重に加算され十分な重みとなって沈んでいく。命の危険を感じ、あわてて腕を振り回した。体は沈むのに足は浮いてる。地面がない。そんな時、二の腕に圧迫感がした。そのまま上へと引き上げられる。 「……っぷは!」  息が吸える。また沈んでしまわないように、咄嗟に何か掴まるものを探した。 「悠。悠、大丈夫だよ」  突然、腰が引き寄せられる。名前を呼ばれながら。必死で目を擦って瞼を解放する。  目の前に、楓くんの笑顔があった。鼻同士がくっつきそうなくらいの至近距離で、楓くんは言った。 「どう? 気持ちいっしょ?」  頷くのも戸惑ってしまう。水の冷たさより、制服がびしょ濡れになってしまったことがショックだった。これじゃ帰れない。 「ふっ、ごめんって。びっくりした?」 「…………、」  「まあ体操服で帰ればいいじゃん。それに俺、部室に替えのパンツ置いてあるから、心配すんなよ」 「……うん」  楓くんに、こんな強引で突拍子もない側面があることに驚いていた。優等生で、クラスの中心人物。この学校を舞台にして物語を作るとしたら、主人公に選ばれるのは絶対に楓くんだろう。そんなものは、ただの正面から見た印象に過ぎなかったのだ。  ーーこんな楓くんを知る人間が、この世にどれだけ居るのだろう。 「泳ぐの苦手?」 「苦手っていうか……プール入ったことないから」 「えっマジで? ちっちゃい頃市民プールとか、親に連れてってもらわなかった?」 「ない、全然……」 「そっかそっか。んで、どう? 初めてのプールは?」  言いながら楓くんはゆびを弾く。すると冷たい水滴が頬に俺の当たって、思わず瞼を閉じてしまった。 「なんか、重くて動きにくい」 「服着たまんまだもんなー。でも地面より自由に動ける感じしない?」 「それは水着だからじゃん」  そう言うと、楓くんはまた笑ってくれる。 「まあね。悠も脱いでみる?」 「い、いやだ、それは」  無意識のうちに胸元を隠していた。他人に裸を見せてはならないという決まりがあるし、というかそもそもこの下には、会長が皮膚を吸った跡がたくさん残ってるし……。 「いいよ。じゃあ今度俺の替え水着貸してあげるから、そん時一緒に泳ごう」 「……うん……」  今度が、あるのか。またこうやって、俺だけにその笑顔を見せてくれるのか。 「俺さ。悠のこともっと知りたい」  悠。  楓くんは確かに俺をそう呼んだ。  今はもう、会長しか呼んでくれない名前を。   

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